「EquaL // PhantoM」問題編第1話
【罪崩し編】
9.
……平成十八年五月四日 午前二時三十分
眠れなかった。
自分の中でわさわさとわいてくる感情に、俺は吐き気すら覚える。巻き付ける不安。巻き起こる不安。自分の中の何かが訴えてくる。このままでは終わらない、と。
死者からの手紙。目の前に落ちてきた花瓶。そして──消えた女。
一瞬、目の錯覚のように思ったが、違った。そもそも同時に、何人もの人間が同じ幻覚を見るだろうか。催眠術でも、何でもないのに。否。それはあり得ない。見たのが俺一人ならそれは幻覚だろう。しかし、見たのが五、六人同時、となったら話は別だ。ましてやそれが初対面同士の人間ならばなおさら。
しかし、しかしだ。錯覚でないというなら、アレは何だったのだろう。事実、庄野早希は屋敷から忽然と姿を消していた。全ての騒ぎが終わってから出てきた樋下を含めて、全員が広い屋敷の中を歩き回り、しかし、見つけることが出来なかった。確かに消えたのだ──人が、ひとり。
三枝が「いたずらだろ? あいつ昔からそういうの好きだったから」と主張し、渚が同意する。「僕も結構いろいろやられたもんね」まぁ、何があったのかはこの場では詮索しないでおくが。いたずらだとすれば、庄野は自ら姿を消した、と言うことになる。
しかし、いたずらにしては決定的な矛盾があった。庄野が吊られていた桜の回りにはひなげしの花が文字通り隙間なく咲き誇っている。そして、花畑は俺たちが畑に立ち入るまで、なぎ倒されたあとは全く存在しなかった。もし、誰かがこの花畑に立ち入ってたら、何らかの獣道らしき跡が残るはずである。だがそれは存在しなかった。即ちそれは──例え首吊りそのものが偽装自殺だったとしても、そもそも庄野自身が、樹木の位置までたどり着けないことを意味していた。
いたずらだとすれば、どうやって庄野はあの場所に現れ、そして一瞬で消えたのか? 首吊りを準備するだけでも多大な努力が必要だ。ましてや、足跡を残さずあの場所に入り込むなんて。
「不可能……なのか?」
不可能犯罪、なんて言葉があるが、それはあくまでも常識的方法では考えられないことが起こる犯罪なのであって、本当に不可能だったらそもそも犯罪が起こるわけがない。しかし、現実に俺たちの目の前でそれは起こっている。
いたずらなら、目的は? もしかして、全員に招待状を送りつけたのも庄野なのか?……そう考えて、庄野の言葉を思い出した。
『でも、まさか刑事が二人も現れるなんて、犯人も予想してなかったでしょ』
庄野が犯人と考えるには、少し違和感のあるセリフだった。もし、庄野が本人言うところの犯人──差出人自身だったら、自分のことを『犯人』だなんて悪意ある呼び方で指摘するだろうか? 何となく俺にはそう思えなかった。
若林刑事が大いびきをかく横で、思考実験が繰り返される。庄野が犯人じゃないとしたら、誰が、何の為に行ったのか?
段々と意識が朦朧としてくる。雲は晴れ、月明かりが俺の部屋に差し込む。今回の為に新調したのだろうか、若干糊の匂いがする羽毛布団の柔らかさが、次第に俺を眠りへと誘う。
不意に外を見た。
「なんだ……あれ」
人魂のような光が、俺の視界を横切っていく。正確には、窓に一瞬だけ、すっと動く光が見えた。
本当に人魂なのだろうか……そう思いながら、俺は静かに瞼を閉じた。
*
……平成十八年五月四日 午前五時三十分
──目覚まし時計の代わりに待っていたものは、悲鳴だった。
その騒ぎを聞きつけ、全員が一階・筑紫姉妹の部屋の前に集う。中からは鍵がかかっていて、入ることはできない。確かにここから悲鳴がしたのに。
「真衣さん、未衣さん! 何があったんですか!」俺は思わず扉を大きく叩く。
しばらくすると、鍵がかちりと回り、寝間着姿の……真衣? が顔面蒼白のまま、窓の外を指さす。部屋の片隅では、もう一方……未衣がやはり縮こまって、カタカタと身体を震わせていた。
俺と伊月、若林、三枝の四人はゆっくりと窓に近づき、カーテンを開け、
「そんな……馬鹿な」
消えたはずの庄野の肢体を凝視した。昨日俺たちが見たままの、桜の木に括られたその身体を。伊月は慌てて窓を開放し、その開いた所から俺と三枝は飛び出そうとした。が。
「待ってください!」
周りを止めたのはアリスちゃんだった。思わず全員が立ち止まる。
「津嶋さんだけ、向かってもらっても構いませんか?……それから、お父さんは救急車と──警察を」
オッサンは慌てて携帯のボタンを叩く。俺はその間に、ヒナゲシの花を分け入った。桜木をよじ登ってロープを切ると、すとん、と庄野の身体は根元に受け止められる。その身体に近づいて、頬に手を触れた瞬間、思わずびっくりするほどの冷たさに俺は瞬間的に手を離した。
心臓が高く鼓動し、荒く上下する気道が悲鳴を上げる。改めて頸動脈と口元に指を当てるが……当然反応は無い。首筋をよく見ると、締められたあとだろうか、うなじまでしっかりと鬱血していた。俺は待機しているアリスちゃんに、大きく×印を掲げる──それは庄野の死を意味していた。遺体を抱き上げて、来た道を逆に向かう。ヒナゲシ畑を抜けて後ろを振り返り、アリスちゃんが俺以外の人間を呼び止めた理由に気づいた。
桜の周りには、ヒナゲシの花がみっちりと、文字通り隙間なく咲き誇っている。それは昨日と変わらない。昨日の昼間見た光景と違うのは、昨夜俺たちが付けた足跡が、その花畑に残っていることだけ。現場は昨夜のまま全く変わっていない。そして──庄野の死はいたずらでも何でもなく、れっきとした殺人であることを彼女の死体が雄弁に物語っている。それは即ち……昨夜見た光景は本物の死体消失だった、ということである。
一瞬でも、幻覚であって欲しいと思った──その願いは、永遠に叶わなくなった。
10.
……平成十八年五月四日 午前六時三十七分
本来なら三時間しか寝てないのだが、もう既に眠気は吹っ飛んでいた。あんなものを見せられたあとでは、そう眠れるわけがない。庄野の首筋に残ったもの。確かミステリードラマで見たことがあるような……首を絞められたあと、索状痕。うなじまで絞め上げられたそれは、ロープを首に掛けただけでは付き得ないものである。
庄野早希は殺されたのだ。何者かの手によって。
その何者かが誰なのか──外では赤羽刑事主導の元、念入りな現場検証が行われていた。少しでも犯行の痕跡を見つけ出す為に。俺は思わず大きな溜息をついた。彼らの努力がしっかりと実るのかは分からない。しかし、今は彼らに全てを任せるしかないのだろう。もう少ししっかりと探し出していたら、俺たちはおそらく庄野の肢体を見つけえたかも知れない。しかし、実際にはそれは出来なかった。自分の不甲斐なさに腹が立ってくる。
河村は目を真っ赤にして泣きはらしている。目の前の現実が信じられないと言わんばかりのように。庄野の遺体は早々に片付けられ、無言のまま車へと運ばれていった。今から町の病院に向かわせて死亡診断書を書かねばならないのだという。
死者はもう、甦らない。
「どうして、なんで早希ちゃんが死ななきゃいけないの!?」
全員共通の疑問が、改めて河村の口から出る。十二時間前と違い、人数が一人欠けている食堂。メイド姉妹は警察の事情聴取とやらで一階の談話室に隔離されているし、そもそも誰も食事を取る気力がない。従って、姉貴が気をきかせて全員分のオレンジジュースを注いで回っていた。しかし、それすらも誰も手を付けないぐらい、疲弊しきっている。
かくいう俺も、一切の水分を身体が受け付けない。文字通りカラカラに乾ききっているにもかかわらず。渚に到っては数分おきにトイレに駆け込み、大きな吐瀉音が聞こえてくる。もう彼の胃の中には胃液しか残っていまい。
「どうして……どうして!」河村がなおも嗚咽を続ける。
「ゆーちゃ、泣いてたってしょうがな……」
「美加ちゃんには分かんないよっ!!」
河村の肩を叩こうとした姉貴の手は、強い拒絶により弧を描く。ぱしん、と静寂の間を貫く音が響いた。姉貴は一瞬たじろいだが、黙りこくる。友を永遠に失った哀しみは、簡単に共有出来るものではない、と察したのだろうか。
「ごめん、じゃあ何も言わないわ、あたしゃ」
そういうと、食堂から一人出ていこうとする姉貴。……そのドアを開いたところで、後ろを向いて俺たちに手招きをする。多分呼ばれているのは……俺だけではないのだろう。俺はアリスちゃん、若林刑事、真二兄に軽く目配せをして、外に出るよう促す。少しずつタイミングをずらして席を立ち、二階にある談話室へと歩いていった。
正直言うと、俺は納得いっていない。芹沢春香からの招待状、何者かの脅迫、そして……消えた死体。これらが全部無関係だとしたら、偶発的に悪意が発露するのだろうか?……俺の答えは否、だ。偶然にしては、あまりにも条件が整いすぎている。それぞれが全く関連性が無く進行しているならば、その考えには疑問が残りすぎる。
「オッサン、赤羽さんから何か聞いてない?」
俺は談話室のソファーに腰を落ち着けると、早速話を切り出した。
「聞けるわけないだろーが。俺は今回捜査には関係ないし」
「でもアレだろ? 警視庁の一、二を争うスピード出世なんだろ?」
「別に警視庁全体だといった覚えはないが……」
「まぁまぁ、勇喜くんもあんまり叔父さんを責めないで」
そりゃそうだけども。何かしっくり来ないなぁ。
「でも、死亡推定時刻ぐらいは分かるでしょ? あと現場に残されたものとか」
「それについては、僕から説明するよ」
階段をややリズミカルに登る音が聞こえて、赤羽刑事が俺たちのいる談話室に顔を出した。
「いやいやいや、俺たちは普通の一般人だから、捜査情報をべらべら話されても困るって」
「何を言ってるんですか若林さん。僕たちもちんぷんかんぷんだから、若林さんの意見を聞いていいかって確認したら、全会一致で賛成ということに」
大丈夫なのか日本の警察。……ただこれで、必要な情報を引き出す環境は整った。
「死亡推定時刻は昨日の午後九時から十時の間と考えられます。ただ」
「ただ?」それまで一切の発言をしてこなかったアリスちゃんがついに口を開いた。
「死斑の定着時間や死後硬直の度合い、それから体温低下などを総合的に判断するとそうなる、というだけで……ただ一点、気になることがあってね」
「ちょっと質問」はい美加さん。「死斑って何?」
「ええとですね、人間は死ぬと心臓が止まりますから、血の巡りも止まりますよね? すると血は段々と重力に逆らえずに下に流れます。そしてたまった血液の色が、皮膚上に痣のように現れます。これが死斑です」
「よく知ってるね、まだ若いのに」赤羽刑事はアリスちゃんの説明に舌を巻く。
「なにぶんミステリが好きなもので」アリスちゃんは適当にごまかしてはいるものの、ちょっとだけ焦りを表情に出している。そもそも彼女はあまりミステリを読まない。それでも、ホームズやアガサ・クリスティを原書で読んだりはしているようだが。「……そういうわけですから、仰向けの死体は背中に現れます……血が溜った場所に死斑が現れるわけですからね。そして、今回の様な首吊りの場合は、一般的に下半身に多く現れます」
「ところが、そうでもなかったんですよ」アリスちゃんの言葉を赤羽刑事が継いだ。
「そうでもなかった……って、下半身以外にもそれがあったってコトか?」
若林の言葉に、赤羽刑事は静かに頷いた。
「確かに、死斑は手足のつま先を中心に存在しました。しかしながら、上半身にも若干ではありますが、定着した痕跡が見受けられたのです。すなわち、死体は確かに移動されていた」
〝消えた死体〟という現実を改めて眼前に突きつけられ、頭の混乱を防ぎきれないでいる。死体は確かに動かされていた。しかし、いつ、どのようにして庄野の死体は移動したのか?……結局、そこに疑問が帰ってきてしまった。
「まさか、芹沢春香の幽霊が、仲間を連れ去りにやって来た……?」
そんな突拍子もない発想が口をついて出る。俺も疲れているのだろう。辺りを見回すと、お前がそんなことを言うなんて、と言う目で皆がこっちを見ている。やめてくれ頼むから。
「あのう、その他には何か……?」アリスちゃんがさらに突っ込んで聞いてくる。
「実は、屋敷の中も若干調べさせてはいただいてるんですが、ちょっと気になることがありまして」
赤羽刑事は身体を乗り出して、ぐるりと回りを見渡してから、呟くようにいった。
「庄野早希の荷物が、ごっそり無くなっているんです」
11.
……平成十八年五月四日 午前十時八分
「奇妙なことになったものね」
姉貴は一言呟くと、大きな溜息を放った。……溜息をつきたいのはこっちの方だ。無理矢理連れてこられてみたらこんな事件に巻き込まれるなんて。そうでなければ今頃はゴールデンウイークの貴重な時間を満喫していたことだろう。……事件に巻き込まれなくても、姉貴に呼び出されていたであろう可能性は置いといて。
「荷物……荷物……荷物……」
アリスちゃんはアリスちゃんで、先程の赤羽の言葉が気になっているようだった。さっきから何事か、ぶつぶつと繰り返し呟いている。
「どうでも良いけど、ちゃんと前見てないと柱に頭ぶつけるぞ」
「荷物……荷物……にも……いたっ!」
ほらいわんこっちゃない。アリスちゃんは笑いながら頭をさすり、自身の失敗を何とか誤魔化そうとしている。えへへじゃない、えへへじゃ。
「なぜ庄野さんの荷物が無くなっちゃったんでしょうね」
「さぁ、最初から持ってきてないんじゃないの?」
俺が適当なことを言うと、姉貴が厳しい顔で俺をにらみつける。
「馬鹿ね、いくら何でも女優の卵よ? あんたみたいに身だしなみに全く気をつけないならともかく、女優を目指すぐらい身なりに気を遣うなら、最低でも化粧品や着替えぐらいは持ってくるはず」
前半は余計なお世話だが、後半には至極納得が行く。それぐらいの荷物がいっぺんに消えるとしたら、まず自然消滅とか無くしたというのは考えにくい。残るは本人により処分された可能性、もう一つは別の人物が持ち去った可能性。
「でも、別人が持ち去ったとして、それは誰だ?」オッサンが質問を投げかけるものの、アリスちゃんは首を横に振る。当然だ。まだ何も分かっていないのだから。そもそも、その人物がどういう特性を持つ人物なのか……即ち、招待状を出した人物か、花瓶を落とした人物か、あるいは……庄野を殺害した人物か。
もちろん、その三者に当てはまる場合もあるし、荷物を持ち去った人物を含めて全て同一人物である可能性もある。どの場合にしたって、確証がない以上は全て予測の段階であり、証拠能力を持たない。
そして、〝誰が〟に次ぐもう一つの疑問。──〝何のために〟。それも現在の段階では全く分からないが、絶対に何かの手がかりになるのだろう、という確証はあったのだろう、未だに「荷物、荷物」と繰り返している。
「そんなに荷物荷物いってたら、アリスちゃんが荷物扱いにされてしまうぞ」
「冗談を言ってる場合じゃないですよ津嶋さ……いた!」
どしん、と今度は人にぶつかった。そろそろ学習しようよ。
「大丈夫ですか? 真衣……」髪型は右分け。「じゃなかった、未衣さん」
「いえいえ、私は大丈夫ですけれど、それより……」
未衣の恥ずかしげな視線を追うと、アリスちゃんがバタンキュー、と倒れている。
「いいの、あの人はほっといて。もう高校生なんだから自分で動きなさい」
「そうです!」動きなさい、どころかガバッと飛び起きた。「未衣さん、確か真衣さんとお二人でお部屋のご案内をされてたんですよね?」
え、ええ、そうですけれど、と未衣は突然の質問にたじろぎながら答える。
「その時、庄野さんの荷物を運んだのは」
「私ですけれど」
「庄野さんの荷物の中身……って、分かります?」
「さすがにお客様のお荷物をあらためるわけには行きませんので……」
未衣は申し訳なさそうに答えた。そりゃそうだろう。ホテルでも勝手に他人の荷物を開けるボーイなど見たこと無いし。
「そうですか……では、重さってどれくらいでした?」
「確か、そんなには重くなかったかと。十キロ無いようには感じました」
「分かりました、ありがとうございます」
アリスちゃんはお礼を言うと、再び歩き出す。目的地は一階の談話室。事情聴取を終えた全員が集っているはずだ。
「分かりました……って、本当に何か分かったのかよ」
「いいえ、全く」アリスちゃんはあっけらかんと答える。「ですが、今回の事件と無関係じゃない以上、どこかで接点があるはずなんですよ」
談話室の扉が改めて開かれ、そこには初日に集った時とほぼ同じ構図で各々が揃っていた。違うのは三点。遅れてきたはずの樋下がそこにいること。全員の表情に更なる暗雲が立ちこめていること。そして……死んだ庄野がこの中にいないこと……。
ドアを閉めて空いている席に座ると、奥にいた真衣が五人分の紅茶を持ってくる。レモン汁をその中に数滴。砂糖を軽く入れると、ほのかな甘い香りが部屋を包む。昼食時間になりましたら皆様お呼びしますので、というと真衣はその場を立ち去っていった。
ここまで来ると、場に漂うのは沈黙というか、気まずさしかない。
「なぁ、考えてみたんだけどさ」渚が問いかける。「みんなはこの招待状で呼び出されたんだよな?」そして、自分の上着の中から封筒を一枚取りだした。
「あ、んだよ? ほらここに」と、胸ポケットから出したのは三枝。
「俺もある」伊月はズボンのポケットから。
「私もだ」樋下は財布の中に畳んであったのを広げて見せた。
「私のはこれかな」鵜飼は自らのバックから取り出す。
「ここにいる面子は、庄野も含めて河村からの手紙で呼び出された。でも、河村は知らないという。ましてや変な奴らを五人も連れてきて。それっておかしくね?」
変な奴らって俺たちのことか。間違ってはいないが、どうも癪に障る。
「助っ人を呼んだということは、河村、お前にも何か来たんだろ?」渚がずんずんと河村の目の前に迫ってくる。その巨体で迫られると迫力は段違いだ。「見せてみろよ、皆に」
「待ってください」アリスちゃんが呼び止める。「その前に、渚さんに届いたメッセージカードを見せてもらえませんか?」
若干ふてくされたような顔で、渚は若干湿ったカードを俺たちに手渡す。確かに、そこにはパソコン書きで『同窓会ホームパーティ』と銘打たれ、最後には間違いなく『河村有沙』と署名があった……やっぱりMS明朝で。
封筒の表書きもや同様にパソコンで打ったものだ。差出人は河村で間違いない。
「消印、結構遠いところだよ。渚さん」俺は封筒の切手欄を彼に突きつける。そこには『荻窪』とはっきり書かれていた。
「いや、河村やメイドの二人が荻窪に出てくればそこで投函することもあるし……」
「あれ……この住所、ゆーちゃんとこじゃないよ?」
横からのぞき見た河村が指摘する。
「ほら、住所が最近合併で変わってるはずだもの……これ、前の住所。それにゆーちゃ、パソコン持ってないし」
「……まじで?」デジタルデバイド、ここに極まれり。
「もしかして、皆さんにも旧住所で届いたのでは?」アリスちゃんが問いかけた。
「そういえば俺は実家に届いてたから、転送してもらった」と、伊月。
「俺もだよ。渚もそうなんじゃねえか?」三枝がフォローを入れる。
「……あ、そうだった」
「なーんだそっかぁ」俺は思わず笑う。あはははは。「……じゃないですって。じゃあ、なおさらこの手紙は誰が出したものか……」
そこに大きな腹時計が一つ、鳴り響いた。アリスちゃんが恥ずかしそうな顔をしてうつむいている。
「あのう……そろそろお腹がすいたんですけれど」
12.
……平成十八年五月四日 午後一時二十二分
場は落ち着いたものの、先程から違和感がギシギシと鳴っていた。食事の前に談話室に現れた赤羽刑事からは「終わるまでこの地を離れないように」と厳命を受けていたのもあってか、どうやら身動きは取れないことに観念してしまっていたようだった。
食欲はないといっても腹は減る。何しろ昨日の夜からほとんど食事に手を付けていないのだ。その辺のことを考慮してくれたのか、昼食は軽くパスタを作ってもらった。カルボナーラのクリームソースの香りが辺りに充満する。約一名、白いカルボナーラが赤いカルボナーラに変化していることはあえて無視しておく。なんでそう君は我が道を突っ走るんだい? と問いかけようとも思ったがやめておいた。不毛な議論に終わることは目に見えている。以前にカルボナーラにタバスコを入れるべきかそうでないかの話になっただけで、二週間ぐらい連絡が途絶えたことがある。普段は向こうから電話を掛けてくるというのに。
食事を済ませると、やはり手紙のつづきが気になったのか、誰とも無く談話室に集ってきた。
「で、河村のところにも何か来たんだろ?」
渚はいきなり核心をついてきた。まぁ、既に根拠は述べられている。河村が五人もの人間を連れてきたということは、何か差出人からあらかじめコンタクトがあった、ということだ。何もなければ呼ぶ必要もあるまい。
「ゆーちゃのところに来たのは、これかな」
そういうと、河村は例の手紙を差し出す。
「『十五年後の今日、ここで会いましょう──芹沢春香』……春香!?」
渚が河村を一瞥すると、彼女は力強く頷いた。回りの面子も一気に顔を曇らせる。こりゃ、なんかあるな……直感に過ぎないが、おそらく外れてはいないだろう。そう思った。
芹沢春香。まるで亡霊のようについて回る、その名前。自殺した同級生の名前を勝手に使われて、いい思いをしないというのは想像に難くない。もちろん、勝手に使われて──というのは、差出人が亡霊でないという前提だ。もし本当に甦った春香が手紙を出して、というならそれはもう俺たちの相談の範疇ではない。シモ師あたりを呼んでお払いしてもらうのが良かろう。
考えられるのは、文字通り『取り憑かれ』て、行動を起こした人間がいるということ。
「一応念の為に伺いますが、この手紙に心当たりは」皆が一様に首を振る。心当たりがあるということは、まず間違いなく手紙の差出人ということになるだろうし。
各々が言葉を失い、更なる沈黙が訪れる。
「でも、なんで河村だけに」渚が静かに口を開いた。
「さぁな、さすがに河村宛の手紙が河村から、って訳にもいかんだろ」と、伊月。
「でも、なんでわざわざ春香の名前を」鵜飼が樋下に問いかける。樋下は、ただ黙ったままだ。
「一体誰だよ、こんなこと」三枝の口が小刻みに震えている。さっきまでのハキハキとした言葉とは違う。何かに怯えている。明らかに。
「まさか、本当に春香ちゃんの幽霊が……」
「そんな訳ねぇっていってんだろ!」
テーブルに掌を叩き付ける音が、談話室中に響き渡る。河村の呟きを三枝が強い口調で否定した。三枝は幽霊の仕業じゃないとは一言もいっていない。その言葉は、どちらかというと自分自身に向けられているようだった。
「三枝さん、もしかしてアンタ、なんか知って……」
「うっせぇ馬鹿!」
声を掛けると、使い古された捨てぜりふを吐いて三枝は談話室を出て行った。三十路のセリフには聞こえないよなぁ……と、改めて思う。三十歳独身がこうもぞろぞろ揃っている時点でどうなのかな、と思うのではあるが。所帯持ちは姉貴と真二兄ぐらいだし。
姉貴は席を立つと、窓を大きく開けて懐からマルメンライトを取り出して、一服。この人何箱持ってきてるんだ。
「でさ、ゆーちゃにも聞いたんだけどさ、その『芹沢春香』って結局誰なのよ」
「そりゃ姉貴、芹沢さんったら十五年前に死んだこの人たちの……」
「黙れ」
背筋が一瞬、びくっと伸びた。……本気だ。この人は本気だ。全部氷室美加のターン。
「表面をなぞるような話はもう聞き飽きた。あたしが聞いてるのは、その芹沢なんちゃらとやらがどういう人間で、かつなぜ死んだか、そしてその時の状況」
一気に横柄な態度になった姉貴を制止するつもりなのか、渚が前に進み出て、
「ってあんた、部外者のくせに何様のつもりで……」
「あぁ?」
「申し訳ありませんでした」……早いなオイ。
「……遺書もない、動機も分からない、状況も分からない。これじゃどうしようもないって。……ねぇ、ゆーちゃ」
「ふぇ……」河村は怯えた目で姉貴を見つめていた。
「本当に助けて欲しいなら、相談に乗って上げる。あたしはその為に来た。違う?」
河村はぶんぶんと首を振って、違わない、違わないよ……と呟いている。
「じゃあ、かなり突っ込んだことまで聞くけど……いいよね?」大きな頷き。
「十五年前の昨日だよ。まさか……と思っていた」
伊月はソファーの上で上体を反らし、ゆっくりと起きあがって指を組んだ。
「確か金曜日……だったかな。俺たちは中学三年生だった。修学旅行も一段落して、幸せな想い出に浸っていた。ゴールデンウイークも半ばを過ぎて、三日ぶりぐらいの休みでウトウトとしていたあの日だった」
平成三年五月三日……。
「電話でたたき起こされた。確か……渚、お前だったよな」
「ああ、確かそうだ。僕は三枝から話を聞いたんだったかな」
「ちなみに三枝さんは……?」と聞いたものの、彼は今出ているんだと思いだした。
「あたしは早希からだったような。そのあとすぐにゆーちゃにも伝えたわ」
「うん、ゆーちゃ、由美ちゃんから話を聞いた。忠くんは?」
「私は伊月くんから聞いたような覚えがある」
段々と、お互いの共通認識が形作られてくる。ここまで来たらあとは当日何が起きたか、その前に何があったかを聞き出すのみだ。
「ちなみに、彼女がいじめに遭っていたとか、そういうのはある?」
今度は全員が否定の声を上げる。姉貴は頭を抱えて、
「困ったな……そっから先が分からないとどうしようもないんだけど」
「では、質問を変えさせていただきます」話をずっと黙って聞いていたアリスちゃんが、静かに手を挙げる。「最後に、生前の春香さんにお会いした時、何か変わったようなことはございましたでしょうか」
不意に、昨日の河村の言葉が頭をよぎる。
『天国と地獄……そう言ってた』
つまり、芹沢春香を死へ導くような……アイデンティティを根底から覆す何かがあったのだろう。天国と地獄、その意味。その意味は……何か。
「確かに、顔色は悪かった。誰もが次々にのぞき見ても、ほっといて、とだけ。ちゃんと話を聞き出すべきだった、今でも心残りだよ」
伊月がぽつりと呟く。でも、彼女の真意を知りたかったからこそ、誰ともなしにこの屋敷に来たのだろう。
それはまるで……亡霊に導かれたかのように。
13.
……平成十八年五月四日 午後四時五十六分
厨房ではコトコトと野菜を煮る音が聞こえてくる。
「夕食の準備ですか」
俺はひょい、と顔を出してみた。なぜかアリスちゃんも付いてくる。今度まな板を前にして、リズミカルに包丁を叩く音。厨房の音楽会やぁ。違う。
「そう……ですね、しばしお待ち下さい」というと、メイドがくるっと振り向く。前髪は蒸気でむれたのか、真ん中に軽く下ろされていた……って、誰?
「あ、私、未衣です」
「ごめんなさい、ちょっと三人目がいるのかと思った」……といおうとしたが、さすがにそれは失礼だよなぁ、と思ってすんでの所で思いとどまった。さすがに三つ子……ってことはあるまい。
「やっぱり、よく似てますよね、お二人とも」うん、無難な答え。
「よく言われますね。さすがに二人でいると、有沙さんですら間違うことがあります」
「真衣さんと未衣さんは、いつ頃からここに?」今度はアリスちゃんが問いかける。
「そうですね、幼い頃からここで育ちましたから……いつからかは覚えていません。母がこのお屋敷に住み込みで働いていましたので、それで……」
「お母様は?」と口をついて出て、しまった、と思った。質問を間違えたかも知れない。
「五年ぐらい前に、他界いたしました」
「苦労されたんですね」
「まぁ、そうかも知れませんけれど、私たちはこの村の外を知りませんから」
外を知らない、というのは至極深く突き刺さる言葉だ。彼女たちには彼女たちなりの人生があって、その範囲の中で暮らしてきた。年頃のことだ、テレビで見るような出来事に興味もあるだろう。それでもなお、この家で暮らすという選択は、茨の道を選び取ったようにも思えた。
「それで、少しお尋ねしたいのですが……有沙さんのご両親は」
「数年前に、交通事故で亡くなられました」
きっぱりとした、それでいて優しい口調で流れてくる、残酷な答え。
俺や姉貴の両親も既に他界している。親父は失踪して異国の土となったし、母は重い病気を抱えて、帰らぬ人となった。俺の場合は、どこかで覚悟は出来ていた。さすがに親父が失踪した瞬間は気が狂うかとも思ったし、信じたくない気持ちでいっぱいだった。だがそれも、時が経つに連れて受容が出来るようになってきた。だが、河村の場合は違う。
「交通事故って……どんな事故だったんです?」
「ちょうどお二人で街に出られて……深夜でした、ひき逃げにあったという警察からの連絡が来たのは」
「ひき逃げ……って、犯人は」
「残念ながら、未だ捕まっていません。有沙さんのショックは、それはそれは深いものでした。それからというもの、この生まれ育ったお屋敷に籠もるようになったのです」
その時、姉貴がいたら彼女にどう答えたのだろうか。いや、もしかしたら姉貴には伝えていたのかも知れない。だが、それを持ってしても、河村の心には響かなかったのだろう。姉貴ですら治せない心の病には、単純に俺たちが踏み入っていいものではない。
未衣さんはすらっと喋るが、俺にはもう二の句は継げなかった。鍋の噴きこぼれがジュワッと大きな音を立て、それに気付いたアリスちゃんが慌てて火を弱める。
「本日のご夕食は何でしょう?」
「そうですね、カレー、パスタと続きましたので、本日は中華と行こうと思います。皆さんストレスつづきで胃腸が弱まっていらっしゃるでしょうから、麻婆豆腐と、野菜のスープを」
「真衣さんは料理はされないので?」
「姉さんは、ちょっとあまり手先が器用じゃないものですから。流血沙汰になる前に私が止めました」と、未衣ははにかむ。にっこりと。何だ、こんな顔も出来るんじゃないか。俺は何故かホッと安堵の息を漏らしていた。
「え、じゃあ真衣さんは何を」
「掃除とか、ベッドメイクとかをしていただいています。あ、裁縫は私ですが」
「そうか……俺、手伝いますか?」
「い、いえ、とんでもありません!」未衣は何故か顔を真っ赤にして否定する。何故。
「いやいや、俺もこうしていた方が落ち着きますから。ネギとか切ります?」
「あ、いや、その……お願いします」
「じゃ、包丁貸してもらえますか」
「それでは、私も手伝わせていただきます」と、アリスちゃん。
「あー、君は入っちゃダメ」
「ええ、なんででしょう?」
……君が手を入れると、大半の人が食べられなくなるからです。辛すぎて。
*
その日の夕食は(何とか俺の努力により、普通の)麻婆豆腐が提供され、とりあえずは食える状況にはなった。確かに、スタミナは付く。豆腐のなめらかな舌触りと、はじける挽肉の食感。それでいて、舌先をほどよく刺激する唐辛子の酸味。うん、旨い。
回りを見渡す。中華なので大皿に盛り、そこから取っていく形式ではあるが、明らかに食が進んでいない人物がいた。……三枝だった。
「三枝さん、食べないと身体に毒ですよ」
アリスちゃんは唇に豆板醤をくっつけながら話しかけた。しかし返事はない。顔は真っ青に変化し、ガタガタと肩をふるわせている。食欲がない……にしてはちょっとおかしい。
河村は三枝のところまで歩いていって、顔を覗かせた。
「蓮次くん、どうしたの? 薬、いる?」
「いらねぇよ、俺は休む」
ガタンと立ち上がる音。無理もないとはいえ、こういうやりとりは止めて欲しい。旨い飯もまずくなる。三枝は結局、そのまま食堂を出て行った。
しかし、何故だ。この漠然とした不安。
「正直、ぴんと来ませんよね……」
アリスちゃんが呟く。全くだ。この一件には、どうも不可解な点が多すぎる。庄野の死体にしてもそうだし、手紙、脅し、そしてさらに芹沢春香の一件と来たものだ。何が原因なのか、どれがどれとどう相関関係にあるのか、あるいは無いのか……疑問点というか、納得出来ない箇所が多すぎて、問題点を把握し切れていない。俺は自分の考えに段々苛立ちを抑えきれなくなっていた。
個人の邸宅にしては部屋が多く、俺と若林刑事には一部屋、氷室夫妻で一部屋、そしてアリスちゃんで一部屋、という具合になっている。三部屋は横一直線に並んでいるのだが、河村が色々考えてこういう部屋決めをしたのだろう。多分。
「ひとまず、部屋に入って休もうぜ」
落ち着かないと考えもまとまらない。そうですね、と答えてアリスちゃんがドアノブを捻った瞬間だった。
「──……痛っ!」
何が起きたかと思った。アリスちゃんの手の甲からは血豆がふくらみ、段々と大きくなって下に流れていく。一筋、二筋で止まったものの、ショックは隠しきれない。
今度は彼女の不注意ではない。その証拠に、ドアの下には手紙が挟まっていた。
〝これ以上深入りするな〟──二度目の警告。
「アリスちゃん、大丈夫!?」
隣の部屋からは姉貴が、少し遅れて真二兄が飛び出してくる。そして彼女の血豆を認めると、
「何つっ立ってんだ! 早く絆創膏!」
いつにも増して怒号が響く。真二兄は慌てて階下に走り、一分後には真衣を連れて救急箱を持ってきた。すぐさま応急処置が施される。
「大丈夫? 気分は悪くない? アリスちゃん」
「いえ、お構いなく。ただ針が刺さっただけですから」
「針が……!!」真衣が絶句する。「そんな、私が昼間に来た時にはそんなもの……」
俺の予感は半分当たって、半分外れていた。怒りにも似た感情が、ふつふつと煮えたぎるのが分かる。もう挑戦状は叩き付けられた。逃げることは出来ない。
間違いなく、俺たちを追い返そうとする脅迫者は、この屋敷の中にいる。
そして、その脅迫者の狙いは──俺ではなく、若林アリス。
14.
……平成十八年五月四日 午後九時二十三分
俺と若林刑事の部屋には、姉貴たちとアリスちゃん、それに真衣が付いてきていた。どうやらアリスちゃんの手の甲が非常に気になっているらしい。
「何か、心当たり、ある……?」
姉貴は心配そうに問いかけを行うが、アリスちゃんはただ首を振るばかり。心当たりがあるとすれば、脅迫者がアリスちゃんを非常に警戒しているということである。そりゃそうだろう。真相にぐりぐりと突っ込んでいく好奇心……相手にとっては危険きわまりない人物。それだけで狙われる理由としては十分だろう。
「私がもっと注意深く見ていれば……」
真衣は怯えた目でこちらを見つめている。アリスちゃんは凛と向き直って、
「大丈夫ですよ、ご心配には及びません」と、答えた。
「多分、アリスちゃんが知らず知らずのうちに、深入りしすぎていたのかもね」
姉貴はそういうが、深入りしすぎていた……本当にそうなのか。この事件は、まだ何も解き明かされていない。何も分かってないのだから深入りするもしないもないだろう。この時点で結論を出すのはあまりにも早計だ。
だが、疑問が残る。だとすると……犯人は何故、アリスちゃんを狙ったのか。傍目に見れば、彼女は味覚変態……じゃなかった、好奇心旺盛な女子高生だ。たったそれだけの人物を集中して狙うには何らかの理由が必要だ。しかし……その理由は何だ? 全く見当が付かない。
ただ存在するだけで狙われる理由。一つの謎のコーティングが少しだけはがれて、本質が見え隠れする。存在自体が理由になるのは至極面倒だ。行動そのものに理由がない。
確かホームズもこんなことを言っていた。『動機のない事件ほど、解き明かすのは難しい』みたいな話をしていたような。あれ、単純な事件ほど……だったかな。多分似たような意味だったと思う。
「でも、アリスちゃんが狙われるんだったら危険じゃね? 本気で撤退を考えた方が」
「ですから、ご心配には及びません」彼女はきっぱりと宣言した。先程の『心配には及ばない』とは意味が違う。こうなるともうテコでも動かない。天才、辛党の他にもう一つ、彼女を表すとしたら……頑固。
しかし、どこかで俺は期待しているのだと思う。彼女なら、この事件の真相を暴き出せるはずだ、と。複雑に絡み合った謎を一本の線へとより直し、解を導くはずだ……と。
「とりあえず、現段階での状況を整理しておかないか」真二兄がようやっと口を開いた。本当に影が薄いなこの人。
まず初日に何者かがメンバーを呼び出し、アリスちゃんが襲われた。
その夜、庄野の死体が現れ、一瞬で消えた。
翌朝、同じ位置に庄野の死体が再び現れ、彼女の一切の荷物が消えた。
そして……アリスちゃんの部屋の扉に罠が仕掛けられた。
「こうしてみると、実際に襲われたのは庄野さんとアリスちゃんか……」
俺は一連の出来事を側にあったメモパッドに書き出し、改めて検討材料として俎上に出した。謎が整理される。アリスちゃんが襲われた理由は先程考察した。多分彼女も俺の考えているレベルぐらいは優に越えて思考していることだろう。
今のところの最重要課題は死体消失の謎だ。
「そういえば真衣さんは第一発見者なんですよね?」
「あ、はい」俺が問いかけると、不意に表情が曇った。無理もない。
「真衣さんは何か見ませんでした? その前でもいいです。例えば火の玉とか」
「火の……玉?」
姉貴が怪訝な顔をする。なんだこいつ、何を言い出すんだ、と。その目は止めてくれ。
「あんた、本当に亡霊がどうとか信じてるの? サンタなんて居ないんだって小学校の頃から人の夢をぶち壊してきたあんたが」……それは今関係ないだろ。
「もしかして……津嶋さんも見たんですか?」
え。……正直、意外な反応だった。俺は思わず、具体的な時刻を出して問いかけていた。
「それは、午前二時頃じゃなかったか?」
「確かそうだったと思います……そうです、ちょうど真夜中の二時ぐらいです。白い火の玉が見えました」
「そうそう、俺も見たんだよ、火の玉。見間違いかと思ってほったらかしにしてたけど」
「それはやはり白でした?」と、アリスちゃん。俺は大きく頷く。
「ですが……私はもう一つ見ていたんです。蒼い火の玉を」
蒼い……火の玉? そんなものは俺は見てないぞ。
「午後七時前後でしょうか。掃除も一通り終わり、自分の部屋から窓の外を見たら、一瞬だけ、ふっと」
「それは……本当に一瞬?」
「ええ」確信を持ってはっきりと答える真衣。
蒼い火の玉の時刻は……確か飯を食って、庄野の死体が最初に現れるまでの間。
「でも、私の見間違いかも知れませんけれど」ここに来て真衣は、少しずつ弱気になる。
「多分、そんなことはないと思いますよ」
アリスちゃんの言葉に、俺は「え?」と思わず反論し掛けた。
「見間違いだとすれば……それは一体何を見間違えたのか、重要な問題です。もしかすると、それが死体消失トリックのヒントになるかも知れません」
彼女は諭すように、ゆっくりと、そして同時にはっきりと答える。ここまで来たらもう彼女に怖いものはない。既に演算は開始されている。あとはいつ、結果が出るかだ。
「それから、三枝さんの話も聞きたいですしね……例の芹沢さんと何の関係があるのか」
「そうだな」といいつつ、時計を見やると時刻は十時半を回っていた。
「さすがに今から押しかけるのはまずいから、明日にしない?」
そうですね、と各々が同調し、一旦この場はお開きとした。アリスちゃんの呟きをかき消すかのように。
「これで終わりならいいのですが……」
*
……平成十八年五月五日 午前八時二分
「三枝さん、起きませんね……」
朝食の食堂。席が並ぶ中、一個だけ欠けている。
「呼んできますか?」
さすがにメイド姉妹に任せっきりにするわけにはいかない。俺は目覚まし仕置人の役を買って出た。むこうも女子高生メイドに起こされたとなっては、本人の沽券にかかわるかも知れないし。
「三枝さん、起きてますか?」
扉を二、三回ノックする。三回目のノックで、独りでに扉が開いた。鍵はかかっていない。
そして俺は……昨日の判断が完全に誤っていたことを激しく後悔した。
そこにあったのは……首に引っかけられたロープを支点として……赤ちゃんのメリーゴーランドのように宙を舞う、三枝の苦悶の姿だった。
──次回、咎裁き編へ演算継続中。