問題編第1話【首括り編】
問題編第2話【罪崩し編】
【咎裁き編】
15.
……平成十八年五月五日 午前七時三十五分
さすがに、二日連続で悲鳴が目覚ましと言うことはないだろう……俺は静かに目を覚ます。ただし、決して寝覚めは良くない。昨日だけで相当の精神力を消費し、俺の感情は少しずつ限界に近づきつつあった。思考が完全に疲弊している。やばい。
光が少しずつ目に入る。二十四時間ぐらい眠りこけていたんじゃないか、というぐらい頭脳が疲れ果てていた。しかし、いつまでも寝言ばかりいっていられない。
十五年前に七人の目の前から消えた少女が、今回の事件の影を構成している。トリックについては皆目見当が付かないが、考えられるとすれば、彼女の死が今回の事件に何らかの影響を及ぼしていることは間違いないだろう。
あとは昨日判断したとおり。まずは身体を起こさねばならない。何より、三枝にも話を聞かなきゃいけないのだ。芹沢春香という人物について。
そう思い、無理矢理身体を起こす。
*
……平成十八年五月五日 午前八時二分
そして俺は……昨日の判断が完全に誤っていたことを激しく後悔した。
*
……平成十八年五月五日 午前八時五十四分
アリスちゃんの昨日の言葉を不意に思い出した。
『これで終わりならいいのですが……』
完全に失念していた。事件が、一人の死では終わらない可能性。何より、それではアリスちゃんが襲われる理由がないではないか。何の為に彼女を追い返さなきゃいけないのか。その理由がはっきりしない以上、事件はまだ終わっていない、と警戒してしかるべきだった。庄野を殺害するだけなら彼女一人を呼び出せばすむ。だが、実際はそうでなかった。何故もっと深く考えなかったのか。後悔しても仕方ないとはいえ……!
ただ、予感は少しずつ、確信に変わりつつある。
「犯人は……この中にいる」
俺は誰にも聞こえないように、ぽつりと呟く。その考えを少しでも拒絶したかったのかも知れない。どこからともなくやって来た部外者が、死体消失トリックを用いて、なおかつ翌朝に死体を出現させる……不自然なこと極まりない。もう少し早く気付いていれば、三枝に声を掛けるぐらいのことは出来たというのに……!
「それで……昨夜は〇時頃には皆さんお休みになっていた、と」
「そうですね……誰も起きていらっしゃらなかったと思います」赤羽刑事の問いに真衣が答える。「十一時半頃、一応見回りをしましたが……特に起きていらっしゃる方は」
「つまりは、皆さんにアリバイはないと……こういう訳ですね」
赤羽刑事はこう宣言した。もしかしたら、俺と同じ予感に行き着いたのかも知れない。
「待ってくださいよ刑事さん」渚が青い顔をして突っかかった。「アリバイって……まさか、レンジも殺されたのか?」
俺が部屋に入った時点で、三枝の後頭部にはやはり索状痕があった。三枝も殺されたのだ。おそらくは、この中にいる誰かによって。
「でも、私たちのアリバイを確認する、というのは……」
鵜飼が呟く。
「それって、この中の誰かが早希ちゃんや蓮次くんを殺したと思ってるんですか?」
「いやいや河村さん、そうは言ってませんよ。一応念の為、確認です」
確認です、とはいうものの赤羽の目の奥は笑ってはいなかった。しかし、誰もこの結論は予想していなかったのか? まさか、三枝本人も……?
「ちょっと待て」伊月がストップを掛けた。「三枝は、この中でも体力的には一番だ。そんな奴が、むざむざ絞殺されるとは思えない」
「ええ、我々ももしかしたら……と思ったので、そのうちはっきりするとは思いますが三枝さんの体液を簡単に調べさせていただいています。……おそらく、睡眠薬が検出されるでしょう。遅効性の」
睡眠薬……?
「そして、皆さんも昨日は早めにお休みになったようですし」
昨日の夕食は何だった……? 麻婆豆腐。まさか、あの中に?
「夕食を作ったのはどなたですか?」
赤羽の厳しい視線に対して、未衣はおそるおそる手を挙げる。俺はそこでストップを掛けた。
「昨日の夕食を作ったのは未衣さんだけじゃないよ、俺も手伝った」
「私もです。そして、未衣さんが何か薬を盛ったとか……そういう事じゃないことは私が保証します」と、アリスちゃん。
「それに、昨日の麻婆は大皿料理だった。つまり……誰にでも、こっそり睡眠薬を仕込むことは可能だろ?」
とりあえず、これで未衣さんに容疑が集中することは避けられそうだ。ただ、問題は一つある。犯人は麻婆豆腐を食べられない……自分自身も寝てしまうならなおさらだ。なので、自動的に犯人は麻婆豆腐を食べなかった人間、ということになるんだけど……。
「誰がどれだけ食べたか、思い出せます? そして全く手を付けてない人間も」
三枝が数口食べて食堂を出たのは覚えているが、他の面子の中で全く食べなかった人間は……しまった、全く覚えていない。どうして肝心な時に観察眼が抜けているんだ、俺は。勘が非常に鈍っているのかも知れない。
「そうだな……もりもり食ってたのはそこの女の子ぐらいだけど」渚はアリスちゃんを指さした。「その他のメンバーについては、正直覚えてないな」
朝のけだるさの要因はそれだったのかも知れない。睡眠薬を盛られながら気が付かなかった……? 失態は重なるものなのか……?
「ちなみに真衣さんと未衣さんは食べました?」
二人は首を振る。「お客様に召し上がっていただくのが最優先ですから」
「ほら、最初から食べないのであれば問題はないだろ?」
「でも、赤羽さん」アリスちゃんが反論を始める。「一つ確認しておかなければならないことがあります。赤羽さんは庄野さんを殺害した人物と三枝さんを殺害した人物が同じ人だと考えていますか?」
「その可能性は高いと思っているよ。方法も一緒だからね」
「でも赤羽、確か二人は庄野さんの死体の第一発見者じゃなかったか?」若林刑事が助け船を出す。「朝になれば窓の外にある死体は誰かが見つける。だとすれば、わざわざ第一発見者になるメリットはないと思うが」
「それに、わざわざ死体を消すトリックをした人間が、その次の事件の時点で自らに疑いがかかるようなことはしないと思います」
アリスちゃんはにこりと笑う。……混乱が拍車を掛ける中で、一種の清涼剤のようにも見えた。
16.
……平成十八年五月五日 午前十時二十二分
何故、犯人はここに来て安全策を採った……?
「リスクを減らすのが純粋に目的であれば、この場で犯行を繰り返す必要はありません。……とすると……」アリスちゃんが呟いた。
とりあえず、俺たち外様五人衆は一階談話室の隣の部屋に集っていた。何かでっかいスクリーンと、張り巡らされたスピーカーが否応なしに威圧感を与える。
「まだ、続ける気なの……?」
姉貴が不安な表情を浮かべている。
聞いたことがある。殺人を犯したあとの行動には大きく分けて二パターン。後悔の念に駆られる場合と、殺人そのものに慣れてしまう場合と。そして慣れてしまった場合……多くはそれを抑えることは非常に難しい。俺はそういう人物を何人も見てきた。あのジャック・ザ・クリッパ事件、房越家連続殺人事件、陸上部員連続襲撃事件、そして脱獄犯連続殺人……。彼らもある者は抑えきれない恨みから計画に手を貸し、ある者は情念に導かれるまま犯行に及んだ。もしかすると……今回の事件も、後者なのかも知れない。
ならば、誰かが止めなければこの事件は終わらない。
「そうですね、この事件が芹沢春香さんの死に直接関係あるとすれば、動機として考えられるのは怨恨──この場合は逆恨みを含みますが──あるいは隠蔽でしょう」
「隠蔽って──わざわざ呼び出しておいて隠蔽はないだろう」
「そうとは限りませんよ、お父さん」若林刑事の疑問をアリスちゃんはかき消す。「少なくとも、私を襲った犯人は、何らかの発覚をおそれているはずです」
「そういえばそーだな、この村には近づくな、とか言ってるんだし」
「裏を返せば……真相を暴いて欲しくない人間がいる、ということですよ」
「そんな回りくどい言い方しなくても、真犯人がアリスちゃんを狙ってる、でいいじゃないか。トリックを暴かれたくないんだろ? 普通に考えて」
「津嶋さん、私を狙ってるのは真犯人である──とは一言もいってませんよ」
「……は?」
面食らった。というか、そういう前提で話していたんじゃなかったのか?
「思い出してください。私が最初に狙われたのは最初の事件が起こる何時間も前です。そもそも、津嶋さんも同じようなことを考えていたはずではないんですか? 私には狙われる理由がない──と」
「確かにそんなことも考えた」
「なら、その推論で話を進めましょう。実際に花瓶事件が起こるまで、他の方にご面会してはいましたが、それも一時間弱です」
「ちょっと待てよ、俺たちを除けば、例外が一人いたはずだ」
「──誰かな、それは」今までずっと静かに話を聞いていた真二兄が割って入った。言葉を発する機会はあまり無いが、この人は結構頭の切れる人だ。若干顔が険しくなっているところを見ると、その名前に察しが付いているのだろう。
「河村さんだよ」
「ちょ、ゆーちゃがそんなことするわけないでしょ!」
姉貴が思わず立ち上がった。眉間に皺が寄っている。憤怒の表情。
「美加さん、落ち着いてください、河村さんが犯人だとは……」
「分かってる……けど!」
「姉貴」俺も思わず呼応して厳しい顔になる。「良く聞け。実際に事件が起きたのはここ……つまり彼女の屋敷だ。屋敷の中で最も自由に動け、かつ犯行準備を行うのに容易な人間は誰だ?」
姉貴は沈黙する。
「……証拠はあるの? ゆーちゃが犯人だっていう」
「だから、可能性の一つだといってるだろ。アリスちゃんが言うとおり、俺は何も彼女が犯人だっていってる訳じゃない……それに、条件面では一緒だと思うぜ、な、真二兄」
「……へ?」
真二兄は突然話を振られて鉄砲マメが鳩を喰らったような……というくらい驚天動地の顔をしている。話を振るのには表情を変えないが、話を振られるのは非常に弱い。それもどうかと。
「真二兄が昔、河村さん絡みの事件でアリスちゃんに相談したことがあったんだろ?」
「ま、まぁ、事件って……いうほどのものじゃ……ないし」
「で、一昨日姉貴は河村さんに、アリスちゃんのことをこう紹介したよな? 真二兄が『こういうのに強いのがいる』って言った事あったじゃない……って」
姉貴は首肯する。少しずつ感情の昂ぶりは落ち着きつつあった。
「そして姉貴が逆立ちしても追いつかない、とも。でもこうはいってなかったはずだぜ?『数々の事件を解決した名探偵である』とは」
「確かに、そうだけど……なんか関係あるの?」
「河村さんは、それまでアリスちゃんの名前すら知らなかったわけだ。姉貴にゃ悪いが、姉貴より頭がいいったって、普通はお世辞ぐらいのことと考える。警戒心を抱く必要なんて全くない」
「まぁ、普通に考えればそうよね……」姉貴は深く安堵の息をついた。
「……ただ、まだ仮定の段階で、完全に疑いが晴れたわけじゃねえし……何より、謎はまだ何にも解かれちゃいない」
全員が沈黙する。このまま好きにさせていいのか、という意見では一致するだろう。しかし、それを止める手立てはどこにもない。この場の議論ではっきりしたことはただ一つ。若林アリスが狙われる理由は、彼女が何らかの理由で犯人を刺激したのではないか……ということ。思い出せ。この屋敷に来てから、花瓶事件までの間に何があったか。
「狙われる理由なんて……」ダメだ。さっぱり思い当たらない。
こういう時は大きく深呼吸をするに限る。息を吸う。上を見る。吐く。息を吸う。上を見て、周りを見て……ん?
「なぁ、ここのビデオって勝手に見ていいのかな」
そうか。ここは映写室か。道理でDVDがやたらあるわけだ。
「うーん、あまり見るのはまずいんじゃないかなー」さすがに姉貴は友人の家を漁るのに抵抗があるのか、やんわりと拒絶する。
「でも一枚ぐらい見ても良くね? コメディとか。気分転換になるし」
「コメディって何があるのよ。昔の映画見ても面白くないし」
「さー、でも結構最近のもあるよ。ほら、『イコール』なんてミステリギャグ映画もあるし」どっかで聞いたような気が。
「こんな時にホラーなんて見たくないわよ」
「ホラーじゃないって、ミステリ! この辺重要だよーテストにでるよー」
「でねーよ馬鹿」あ、そういうこといいますかお姉様。……まぁいい、もっと軽いのを見ましょうか。
「ホラーといえば、あの時何人かで見てたのもホラーだったよね」真二兄がぽつりと呟く。
「あの時、って何の時? 最近ホラーなんて見た記憶ねーよ?」
「いや、僕らじゃなくて、伊月さんとか渚さんとか」
「あぁあぁ、あの時か……」俺は納得した。そうそう、あの時……。
……ちょっと待った。
「あの時って……あの時?」俺はアリスちゃんの方を向き直った。彼女はただ頷く。
「どうやら、もう少し詳しい話を聞いた方が良さそうですね」
17.
……平成十八年五月五日 午後二時十五分
「え、映画を見たメンバー?」
食事を済ませた俺たちは、さっそく伊月と渚に接触した。場所は一階の廊下。周りには警官が何人かいる。無理もない。二晩続けて殺人となったら、警察の面子にもかかわる。基本的には捜査と警備のために私服、制服交えて数人の人間が歩き回っているようだった。
「そう、初日の夕方、何人かで映画を見ていらっしゃいましたよね? その時、どなたがいらっしゃったか分かります?」
「あの時はほとんどいたよ……俺と浩太郎はそうだし、あと蓮次と由美もいたかな」伊月は顎の下を少しぽりぽりと触りながら答える。
河村はその直前まで赤羽刑事の応対をしていたし、筑紫姉妹はそれぞれ夕食と館内の清掃で忙しかったのだろう。何しろ客人が大量に来たのだ。手を抜くことは出来ない。
「あれ、そういえば樋下さんは?」
そういえば何だろう、あれだけ口数が少ないと存在を忘れそうだが……一人だけその居場所が分からないなんて。俺は違和感を感じずにはいられなかった。
「樋下は……あれ、いたっけ?」
伊月から問われた渚は首を横にする。分からない……というよりは否定のニュアンスに近い。
「ちなみに、庄野さんは?」
「早希か……一回だけ部屋を抜けて、戻ってきたけど」
「へぇ、映画に興味ないんですね」女優の卵とかいってたのに、研究をしなくていいんだろうか。
「ん? 俊、あれ映画だっけ」渚は俺が何気なくいった言葉に疑問符を付けた。
「いやいやいや、あれ映画じゃなかった。Vシネだった。早希が持ってきた」
「へー。でもなんで途中で抜けたんでしょ? 自分が持ってきたのに」
「見る必要はないと思ったんじゃない? 出てたんだし」あ、そういえばそんな話をしてたな。たしか端役だとか何とか。
そんな話をしていると、アリスちゃんがまじまじと伊月と渚の顔を交互にのぞき見る。
「……もしかして、庄野さんって殺される役ではなかったですか?」
彼女が二人に問いかけると、そうそうその通り、という言葉が返ってきた。
「どうして分かった? まさかこのVシネ見たことある?」
「いえ、そうではないんですが……また後程お知らせします」
アリスちゃんはにこりと笑うと、かかとをそのまま反転させて歩き出した。
「ちょっと待って……どういうこと?」
「実は、庄野さん殺害事件の目星はほとんどつきまして」
「そうなんだ、もうほとんど目星はつきまして……はい?」
今なんて言った。
「残念ながら、全く証拠はありません。犯人も分かりません。しかもまだ疑問の段階です……確信まで行かない状態で、仮説を立てることは出来ません。私の疑問が間違っていたら、それは皆さんにご迷惑を掛けることになりますから」
そんなことはないはずだ、と言いかけて俺は止めた。俺ごときが軽々しく口に出して良い言葉なのだろうか。真実の重み、真実の痛み、真実を知る勇気。残念ながら、もう既に俺たちはそれを知ってしまっている。突きつけたと思っていた真実が誤りであった時、最も傷つくのは本人だ。
「ただ言えるのは、津嶋さんと真衣さんが見た〝火の玉〟は、事件に深く関係があるということです。庄野さんの荷物が消えた謎も、これではっきりしました」
「でも、犯人が分かったわけじゃない、と」
「そうです。このトリックならば、犯行は誰にでも可能ということです」
アリスちゃんはそういって頷く。……歯がゆい答えだ。手法は既に自明。しかし実行者は未明。だとすると、一体誰が?
「今の時点で一番怪しいのは、樋下だよなぁ」
事実、真衣の証言から逆算すれば、ドア針事件は既に死んでいる庄野には不可能。となると、現時点での生存者で、花瓶事件時のアリバイがないのは樋下、ということになる。……話を聞いてみる価値はある。
俺は一階の、樋下の部屋のドアをノックした。廊下にはまばらに人間がいて、どうやら警戒モード。いくら容疑者と見られていないとはいえ、さすがにこうもウロウロされるのは向こうにとっても気持ちよくないのだろう。「ちーっす」と挨拶したら思いっきり睨み返された。
「誰だい」想像していなかった、不遜な返事が戻ってくる。
「あ、津嶋です」
「用件は」
「樋下さんとあんまりお話しする機会無かったもんで、元気かなー、と思って」
「用件がないなら帰って欲しい」
何この面会謝絶モード。こっちが話を聞きたくても、会ってももらえないのは苦痛でしかない。
「そうおっしゃらずに。本当にお話を聞くだけですから」
「結構だ、帰ってくれ」
うーん、困った、らちがあかない。どうしたらいいものか。
「ではすみません、一つお伺いしたいのですが……こちらに到着してからご夕食までの間、何をされてました?」
「ちょ、アリスちゃん」
一瞬、しまった、と思った。せめて名前を出さなければ良かったのに、このごろの俺は判断ミスが多すぎる。相手はこの子をターゲットに狙ってるかも知れないんだぞ?
沈黙のあと、扉の向こうから声が漏れる。
「この部屋でずっと文章を書いていた。それでは不満かな」
「それを証明する人は」
「証明など必要ない、私がここにいれば十分だ」……アリバイ不成立。「もう用件は済んだだろう、帰ってくれ」
何かこれの繰り返しってのもどうも癪に障る。こういう言い方しかできないのかこの人は。俺はどうしようもなくなって、口を開いた。こうなったらもう一か八か、直球をぶつけてみるしかない。
「アリスちゃんを襲ったの、アンタじゃないですか?」
証明は出来ない。状況証拠のみ。ただ、俺は段々確信を強めつつあった。
「お答え出来ない」
答えになってねぇよ、と呟くものの、段々と周りの視線が気になってくる。制服警官がじっとこちらを見つめてくるのだ。ちょっとそういうのはご勘弁願いたいのだけれど。
「分かりました……また後で来ます」
ここは脇を固めるまで一旦解散……アリスちゃんをもう一度狙ってくるチャンスを待つことにしよう。
18.
……平成十八年五月五日 午後七時三十一分
結局夕食時になっても樋下は姿を現さず、俺たちは黙々と飯を食うしかなかった。
「どうしたんでしょうかね、樋下さん」
「さぁ、食欲がないとか」
渚は素っ気なく答える。そんなこといって、殺されてたらどうするんだ……と思ったがあまりにも不謹慎だ。とはいえ、樋下は最重要容疑者である。その彼が殺される、というのが俺には想像出来ない。
俺は少しの疑念を抱きながらパエリアを食す。オリーブオイルとサフランの香りと酸味がちょうど良く食欲をそそる。そして所々に仕込まれた、エビの弾ける食感。香辛料系が続いているが、決してくどい味もせず、さっぱりとした仕上がりになっているのは未衣さんの努力の賜物によるものだろう。早めにこの家から独立して、店を構えるべきなんじゃないかと思うほどの。こういう料理が食べられるなら、俺はもう少しここにいてもいいかも知れない。もちろん、事件抜きで。その点だけは姉貴に感謝すべきだろう。
全員が食べ終わることになっても、樋下はついに姿を現さなかった。
「食べに来れば良かったのに」と、鵜飼が口元を拭いながら呟く。
「まぁ、腹減ったら食いに来るんじゃないか?」
「俊はそういうけどね、彼は結構集中すると寝食を本当に忘れるらしいわよ」
「……マジで?」
「昔、プログラマの集まりのよしみで一度再会したのよ。その時にそんなこと言ってた」
「え、樋下さんもプログラマなんですか?」アリスちゃんが問いかける。
「まぁ、そうね……最近は本当に厳しい職場に回されて、大変らしいけど。ここにも仕事持ってきてんじゃない?」
「由美はそうでもないの?」今度は渚が問いかけてきた。
「まー、ね。これでもチーフ張っちゃったりしてるから」
「みんな偉くなってんだなー」渚が改めて感心する。
「でも浩太郎も、そろそろデビュー決まりそうなんでしょ、小説」と、伊月。
「賞取ったばかりだから、再来年かもねー。ラノベだから、二人はあんま読まないだろうけど」
「いやいや、出たら読むって……あとでタイトル教えてくれ」
「ま、そのうちになー」
「で、ラノベって何?」
「ちょっと待てこら」
雰囲気は和やかだ。というか、必死で和やかになるようにしているのかも知れない。その辺の必死さが、少し哀しく感じた。
*
……平成十八年五月五日 午後八時五十分
未衣さんが気をきかせて、樋下の分のパエリアを食堂に置いたままにしていた。もしかしたら、彼が不意に現れて食べるかも知れない……と思ってのこと。
俺たちは全員一階談話室に戻って、それぞれの現在について談笑していた。上司がどうとか、部下がどうとか、三十歳にして何とか。ただし、誰も庄野と三枝のことについては触れないようにしていた。それがかなり白々しく思える。空虚としか言えず、その空虚さが却って彼らの言葉をたどたどしいものにしていた。
ぎこちない笑いに包まれる中で、俺は考えをまとめきれずにいた。
樋下が犯人だとして……なぜアリスちゃんを襲わなければいけないのか? 納得の行かない疑問が俺を蝕む。いくら疑いはあっても……客観的証明が出来ない限り、それは事実とはなり得ない。
「でも、忠くん、本当に食べないのかな……? ゆーちゃ、どう思う?」鵜飼が少し眉間に皺を寄せて呟く。
「そうだね、ちょっと見に行った方がいいかも」
「俺行ってこようか?」と、渚が挙手をする。
「じゃ、お願いしようかな」
樋下の部屋は、この談話室の二つ隣にある。こうも静かだと、樋下が部屋から出てこなくても声ぐらいは聞こえてくるし……それに部屋の前には二人ほど警官がいるし、何か起こりはしないだろう……と、思う。
談話室から渚が出て行って数秒、コンコンとノックの音が聞こえる。
「誰だ」
「浩太郎だけど。入るよ」
「ああ」……ぎぃ、と扉の開く音が聞こえてきた。
「この際、HTMLあたり教えてもらおうかな……ちょっと準備してくる」そういうと、鵜飼は席を立って、一分少々でカバンを持って戻ってきた。渚は樋下の部屋からまだ出てこない。
「え、鵜飼さんの方が地位的には上ってさっき」
「地位がどうのこうのより、使ってる言語の問題かもね。最近は色々勉強しないといけないから、何事も」
「勉強熱心なんですねー」感心した。いや、一応俺も研究職だから人のこと言えないけど。
十分ほど経って、渚は樋下の部屋から戻ってきた。時計を見ると、九時四分。
「どうでした?」アリスちゃんが心配そうに尋ねる。
「だめ、全然口を開かない」と、首を横に振りながら。
「樋下さんの様子は」
「んー、なにかパソコンで書いては消し、書いては消し……をしてたみたいだけど、それが何かは教えてもらえなかった。覗こうと思ったけど見せてくれないの」
「お前だってゲームやってるところ横から見られたら腹立つんじゃないのか?」
「確かに……そうだけど」
伊月のツッコミが渚にクリーンヒット。
「じゃ、今度は私行ってみようかな」鵜飼が席を立つ。「相手してもらえるかどうか分からないけど」
彼女は談話室を出ると、同じくドアをノックする。
「誰だ」
「由美だけど」
「帰ってくれ」
「なにその素っ気ないなー。入るよ」
「……ああ」
ガタン、とドアが閉められる。俺たちは様子を黙ってみているしかない。
「でも、飯ごときでなんでこんな騒動にならなきゃいけないんだ?」
若林刑事は窓際でホープの煙を纏わせながら呟いた。確かにそうかも。騒動というほどのものでもないけど、まぁ、この際は。
──五分経過。
時々「帰ってくれ」「まぁまぁまぁ」と樋下と鵜飼のやりとりが聞こえる。これで話を聞くとかそういうレベルになるのか……?
──十分経過。鵜飼が談話室に戻ってくる。時計は午後九時十七分。
「だめっぽい」
「由美でだめとなると、誰が行っても厳しいかなぁ……」
渚が一人ごちる。河村は心配そうな顔つきをして辺りを見回して、「ゆーちゃ行ってみようか?」と呟いた。
鵜飼がストップ、と掌を出して河村を制止させる。
「いや、ゆーちゃは却って怒らせる様な気がするから……俊、ちょっと行ってみてよ」
「分かった、ちょい待ち」
伊月は樋下の部屋の前に歩いていく。ドアのノックを二回。すると、一回目の途中で声が聞こえてきた。
「誰だ」
「ん、俊介」
「……帰ってくれ」
「いや、おまえさ……」
「……帰ってくれ」
「……知るか」
伊月は三分で部屋の前から戻ってきた。
「だめだ……俺の手に負えない」
「うーん、どうしようか、せめて夕食ぐらい食べてくれればいいのに」鵜飼は呟く。
「ゆーちゃ、部屋の前に置いてこようか?」
「そうだね、その方がいいかも」
渚は河村の案に賛成した。
──時刻は午後九時半を回っていた。
食堂、樋下の部屋を経由して戻ってきた河村は、少し疲れたように腰を下ろす。
「あの……」あ、未衣さん。うん、何となくやっと見分け方が分かってきたような気がする。「お膳を下げるのは私がやりますから、皆さんはそろそろお休みになっては」
「そうだな……俺は寝るよ」渚が席を立つ。
「私はもう少しゆっくりしようかな、浩太郎お休みー」
鵜飼が声を掛けると、渚は後ろを向かずに手を軽く振る。
「さて、浩太郎もいなくなったことだし……昨日の麻婆豆腐の評価をまだ聞いてなかったわね、『キャロル』さん」
あ、そんなハンドルネームだっけ。
「んー、睡眠薬が入ってたとなっては、正当な評価はくだせませんね……未衣さんには申し訳ないのですが」
「いや、俺も作ったんだって」さすがにその辺にはプライドはあるので割って入る。
いつの間に席を立ったのか、伊月が手を拭きながら戻ってきた。
「味は悪くなかったような気がする、俺は」
「お薬さえ入ってなければ……」
まだ拘るか。もしかしたら薬じゃない方がいいかも知れない。薬の代わりになりそうな苦いもの苦いもの……。
「インスタントコーヒー入れればよくね?」
……一瞬時が止まった。……なぜ止まる。というか何この演出。
「私も部屋に戻ろうかな……お休み」
鵜飼が席を立つ。段々と人が少なくなってきて、時刻は午後九時四十五分。まぁ、寝てもおかしくないといえばおかしくない。
「ゆーちゃもそろそろ寝ていーい?」
「いい加減に寝ろ」伊月の返事は素っ気ない。
「んじゃ、解散にしましょうか」
俺が声を掛けると、誰とも無く席を立つ。今日のところは全く問題ない。明日の朝も何が起きるとは思えない。……そう信じたかった。
19.
……平成十八年五月六日 午前七時五十七分
翌朝。食堂に樋下は現れない。
「どうしたのかな。まだ来ないなんて」
河村が心配そうに首をかしげ、朝食のコーンスープを取り分けている未衣に問いかけた。
「未衣ちゃ、昨日の夕ご飯は食べてる様子だった?」
「あ、空いたお皿でしたら私ではなく姉さんが片付けて参りました」夕食はしっかりと召し上がったらしい。あれだけ食欲がないといってたのに。
「真衣さんは今どこに?」
と、問いかけると未衣が食堂を出て行き、数分後、真衣を連れてきた。
「お皿は空でした?」
「ええ、確かに空だったと思います」真衣は答える。
「片付けたのは何時頃でした?」
「確か……十時を少し過ぎた頃だったような。夜の見回りをしていて、それで」
「警官の方はいらっしゃいました?」
「ええ、その直前に交代されたのか、眠くはなかったようですが退屈そうでした」
何故だ。不安だけが増大する。早くしろ、と感情が鐘を打ち鳴らす。がんがんがんがん。このままでは終わらないぞ、という予感であり、悪寒。
「まさかとは思うけど……行ってみましょうか?」
この際、全員で歩いていった方がいいかも知れない。
朝食を終えると、十一人の大所帯はぞろぞろと樋下の部屋の前につく。周りには昨日の夜からの交代勤務を終えた警官が引き継ぎ事項を確認していた。
「あ、お疲れ様です」俺は軽く声を掛ける。眠そうな警官Aが「ん、ああ、ほはようほはいます」とあくびをしながら挨拶する。
「昨日の夜、この部屋の前に誰か来ませんでした?」
「本官が交代した後は、そこのメイドさんがお皿を片付けに来たぐらいだけど」
「交代したのは何時頃です?」
「確か、九時五十分少し前ぐらいだったと思う」
「ということは……それ以降は誰も部屋には入っていませんね?」
「ん、少なくとも出ていった人はいないからね。引き継ぎの時にも、誰かが入りっぱなしと言うことは聞いてないし」
一人称が本官という割にはヤケにフランクだ。あまり出世しないかも知れない。
「樋下さーん、入りますよー」
俺はドアを三回ほどノックする……が、返事はない。嫌な予感。こういう予感はだいたい当たる。気がする。俺は周りに同意を求め、ドアを開いた。
──バタンッ。
*
……平成十八年五月五日 午前八時五十分
納得の行かない幕切れだった。
「自殺……ですかね」
「多分……な」
机の上のノートPCはウインドウズのマークが移動している。マウスを少し動かすと、テキストエディタに打った文字が現れた。
【 芹沢アリスは恐ろしい 全てを顕わにされる前に 私は死を選ば8ん 】
目の前では、樋下忠の首吊り死体が現場検証を終えて天井から下ろされるところであった。
樋下の遺体は早速屋敷から運び出され、検死が行われる。最終的には行政解剖も行われるだろう。
屋敷の中は、ここまで来ると沈痛を通り越して、表情が完全に失われていた。
「現場にずっと見回りをしていたものが申し上げたとおり、昨夜は皆さんが一通りご面会された後、誰もこの部屋には入っていません」
赤羽刑事が、手元のメモ帳を多々手に報告を淡々と行う。その間、アリスちゃんはずっとにこにこしながら微笑んでいた。不謹慎かも知れないが、彼女はそういう感情の持ち主だ。あの事件を経て、喜怒哀楽の感情が豊富になったかといえばそうではない。口には出すが、絶対に顔には『楽』の表情しか出さない。それが……アリスという少女だった。
「そして、夕食のパエリアの皿が空になっていたのが、午後十時頃。ですよね、真衣さん」
真衣は怯えた表情で頷く。
「死亡推定時刻は午後九時から十時半頃までと推定されています。……ですが、河村さんがパエリアの皿を扉の前に置いたのが午後九時半。パエリアを食べ終わって皿を戻したとすれば、その時間を考えると彼は九時四十五分頃から十時半までの間に自ら命を絶った……文字通り、最後の晩餐として召し上がったのでしょう。最終的には解剖をしなければ分かりませんが」
彼女は赤羽刑事の話を一通りメモを取って、発言する。
「ドアの開閉はありましたか?」
「引き継ぎの時間のみ、完全に目を離してはいたようですが……なにしろ、見回り対象は樋下さんの部屋だけではないのでね」
「だいたい何分ぐらいですか?」
「そうだね……一分もなかったんじゃないかな」
「分かりました」
そういうと、彼女は笑みを崩さない。
樋下は強制的に自ら事件に幕を引いた。……とてもじゃないが、納得出来ることじゃない。俺たちは一体何のためにここに来たのだ? 芹沢春香の呪いは本当に解けたのか?……疑問符が宙を舞う。
「本当に、大変ご迷惑をお掛けしました」
河村が、初日に見たような屋敷当主としての容貌を顕わにした。女主人、と呼ぶにふさわしい、凛としたたたずまい。その一方で年の割にはあまりにも幼い、舌足らずなしゃべり方。精神年齢の相当のギャップに最初は面食らったが、多分どちらも河村有沙なのだろう。山奥の洋館で一人生きていくためには、それぐらい逞しくなくてはならない部分はどうしてもあったのだ……と思う。その重圧に簡単に人は耐えきれるのだろうか?……否。だからこそ彼女は姉貴の元に一時期身を寄せたのだろうし、親友の死があったとはいえ、同窓生には甘えていられる。そのギャップが、これまで彼女を壊さずに来たのかも知れない。
彼女はこの先も、この屋敷で一人過ごしていくのだろうか。何となく、寂しく感じた。
20.
……平成十八年五月六日 午後一時四十三分
疲弊、という言葉が似合う。事情聴取のために誰もが屋敷に残っているが、既に予定を切り上げて解散……という雰囲気に傾きつつあった。誰も言葉を発したがらない。もう食欲すらわかない。
「津嶋さん……」
「どうしましたかアリスちゃん」
「帰りましょうか……疲れました」
彼女が疲れを口にするとは全く予想外だった。この人だったら、不眠不休でぶっ倒れるまで推理を続けると思っていたのに、さすがにそれは買いかぶりすぎだったのかも知れない。彼女も人間だ。十で神童十五で才子、ということもあるかも知れない。まぁ、マシンのようにただひたすら動き続けるよりは、しっかりと休養を取ってリフレッシュした方がより健康で文化的だ。
「演算でしたら、お家に帰っても出来ますし」
「……だな」
その考えに同調する。もうこれ以上は誰の無理もさせられない。
「アリス」
……遠くから呼ぶ声が聞こえる。……オッサンだ。
「樋下の解剖結果が出た。聞くか?」
「やめとけよオッサン……アリスちゃんはもう限界だ」
「……そうか、悪い」
「聞かせてください」
彼女はむくっと起きあがる。ガバッと、と言うよりはかろうじて最後の気力を振り絞っているかのような。
「死因は窒息……というわけではないらしい。庄野の時と同じように、首の骨が折れていた。脊髄損傷による即死だろう。おそらく首を吊った時に、勢いで折れてしまったものと思われる」
「ひっかき傷とかは?」
「全く見あたらなかった。うなじに紐の痕もない」
……そりゃ、自殺だろうからな。絞められた痕があったら大変だ。
「胃の中には昨日のパエリアがほぼ未消化で一口分、入っていた。そして……その中から睡眠薬の成分が検出されている」
「睡眠薬……ああ、遅効性の」俺は上の空で相づちを打つ。
「今度は即効性だ。数分も経たないうちに強烈な眠気が誘う」
「つまり、二種類の睡眠薬を持っていた……と。わざわざご苦労なことで」
アリスちゃんは寝ぼけ眼で話を聞いている。もしかしたらほとんど眠れていないのかも知れない。その辺が何となく等身大っぽく見えるからそれはそれでいいとは思うんだけど。
「それから、パソコンについても念のため調べておいた」
「調べておいた……ってオッサン分かるの?」
「俺が分かるように見えるか?」……聞いた私が悪うございました。「署にも詳しい奴がいてな、そいつに操作してもらった。一応、パソコンについて多指紋は、全て樋下のもの。ただし、付属していたマウスに限って言えば、指紋が全て拭き取られていた」
「指紋が……なんで?」
「さーな、理由は分からん。ただ、少なくとも遺書がそのパソコンで作られたことは分かった」
「え……そんなことまで分かるんだ」
「俺はよく知らねーが、何でもバックアップファイルってーのが残ってたそうだ」
「アリスちゃん、バックアップファイル……って、何?」
「ワープロソフトや表計算ソフト、エディタ……要するに様々な文書を作るソフトの中には、突然ソフトが動かなくなった時のために、バックアップを自動で取ってくれる機能があるのもあるんですよ……津嶋さんもそういう経験ありませんか?」
「あー、何か昔あったような気がする」
アレだ、卒論の時とか完成間際に突然パソコンの動きが悪くなって、……確かあの時もアリスちゃんに直してもらったんじゃなかったかな。そういう記憶がうっすらとある。
「でも、それがあるから何なの?」
「バックアップファイルは、その文章を開いたパソコンにしか残りませんからね。編集すれば前のバージョンをパソコン上に残してくれるソフトもあります」
「ちなみに、バックアップファイルが作られた時刻は、昨日の午後七時ぐらいだったそうだ……あいつらが声を掛けた時には、もう死を覚悟してたんだろうな」
「死の覚悟……か」その割には、どうも引っかかる。なんだこの違和感は。パエリア。パソコン。遺書。
「そういえばだな、最近使ったファイルの中に、よく分からん音声ファイルの名前があったな、って言ってた」
「音声ファイル?」
「だから俺に聞くなって! 音声ファイルが二、三個あってだな。ただ、それをクリックしても『ファイルが見つかりません』って出るんだそうな」
「消えた音声ファイル……ですか」アリスちゃんがじっくり考え込んでいる。疲れは顔に出ても、表情は変えない。正直しんどいのは彼女も同じ。
「お父さん、先程樋下さんの胃の中にはパエリアが一口分……っておっしゃいましたよね」
「ああ、言った。ほとんど未消化の……な」
「河村さんが持っていったパエリアの皿には、もっと量があったように思いましたけれど……でしたら、残りのパエリアはどこに行ったんでしょう?」
俺は彼女の言っている意味が正直ピンと来ていなかった。もうパエリアの量なんてどうでもいい……早く帰りたい。
*
……平成十八年五月六日 午後三時四十八分
荷物をまとめ、部屋を出る。三泊四日のトラブルの旅はひとまず幕を下ろそうとしていた。しかし、決してもやもやが晴れるわけではない。犯罪者を追究することは永久に出来ないのか……?
俺は河村さんに向けて大きく礼をする。
「みかちゃ、また……来てくれる?」
「いいよ、いつでも呼びな……相手になってやんよ」
瞼に涙を浮かべて問いかける河村に、姉貴は精一杯の笑顔で返した。何も限界なのは俺やアリスちゃんだけではない、姉貴もいっぱいいっぱいだった。
「元気でね、ゆーちゃ」
「……うん」
姉貴は河村の返事を聞かずにポルシェに乗り込む。排気口から黒い煙が一発。それから大きな音を立てて車は進む。来た道を戻り、ひなげし畑を遠くに見つめる。赤い花びらが静かにそよそよと舞い、俺たちとの別れを惜しむかのようにも思えた。
白い屋敷が段々と見えなくなったところで、姉貴は突然エンジンを止めた。
「ちょ、どうした姉貴……」
「ちっくしょおっ!」
山の中に響き渡るクラクションの音。姉貴は拳をハンドルに叩き付け……泣いていた。
「何が任せろよ! 何が助けてやるよ! あたしは結局ゆーちゃを救えなかった! 助けてやれなかった! 何も出来なかった! 最低だよ!」
「姉貴、落ち付けって」
「落ち着いてるわよっ!」矛盾したことを彼女は大声で叫ぶ。「あんたたちを呼び出したのはあたしの責任。だから、あたしが全部負わなきゃいけない」
「待ってください、美加さん……まだ結論を出すのは早いです」
「え……」姉貴は不意にアリスちゃんの方を向き直る。
「まだ仮説の段階ですが……私はとある理由により、樋下さんがこの事件の全てを計画したわけではない……と思っています。それに、樋下さんは自殺じゃないとも」
姉貴は再びエンジンを掛け、森の中を走り出す。
「なんでそんなことが……?」
「消えた残りのパエリアです。ちなみに、樋下さんの部屋のゴミ箱からは何も出てこなかったんですよね?」
「ん、ああ、そういう報告は聞いていない」と、若林刑事。「自殺じゃないとしても、屋敷の窓側……ひなげし畑の方だな、そこにも何人も警官はいたから、そこから侵入することは不可能だ。実際、樋下の部屋に午後十時以降窓から侵入した奴はいないって話も出ている」
「おじさん……ですが、部屋が密室だったわけではありません」
アリスちゃんはにこりと笑うが……意味が分からない。どういうことだ。
「自殺じゃないってことは……犯人がいたりする?」
「ええ……それも、はっきりと樋下さんが残しています」
……は?
「それってどういう意味?」
「確かに、その人物であれば庄野さんの事件もすんなりと説明が行きます。ただ……どうも一つだけ納得が行かなくて……」
「違和感があるとでも……?」
「あの遺書には、樋下さんの知り得ないことがはっきりと書かれてるんですよ。樋下さん本人が作ったにもかかわらず……」
「知り得ない……ことか」
何がなんだかさっぱり分からない。俺は溜息をついて、彼女の頭をぽんとさする。
「何なんですか津嶋さん」
とはいえ、本人はまんざらでもなさそうじゃないか。別にいいけどさ。頭をさすりながら、あることに気がついた。
「身長、伸びてね?」
「今、だいたい一四五センチぐらいです」
確か出逢った時が一三〇センチ弱だったような。小五にしては小さいな、と一瞬だけ思ったのを記憶している。
「しっかし、アリスちゃんも五年前から一応成長したんだな」
「これでも高校生ですからね」
確かに。
「五年前から身長とか体重とか名前とか色々変わった割にさ、その食欲だけは変わらないよな、ホントに」
俺は極めて軽い気持ちで呟いた……つもりだった。アリスちゃんの表情から、みるみる血の気が失せていく。虎の尾を踏んでしまったかのような、真っ青な顔で、一言。
「……まさか」
「え?」
「引き返してください!」
森の出口でUターンを掛け、道無き道を三度通る。草木がなぎ倒されていくのに同調するかのように、彼女の手元のメモ帳にはするすると文章が綴られていった。
「どうして気付かなかったんでしょう……全然知り得なかったことじゃないんです。知っていたんです。それが、とんでもない誤解を招き、悪意を発露させた」
……意味が分からない。しかし、理解はしていた。〝疑問〟が〝確信〟に変わった瞬間。
「そしてもう一人……その事実を知っていた人がいたんです。その人は、最後の最後にその誤解を利用した。──その人こそ、この連続殺人の真犯人なんです」
アリスちゃんが襲われたのはなぜなのか。
庄野の死体はどこに消え、いつの間に現れたのか。
樋下が殺害されたとすれば、それはいかなる方法に寄ってか。
遺書に残された違和感とは何か。
そして、呪いの正体は〝誰〟か。
「呪いというのは、人間が介在しない限り発生しません。更に言うなら、何かのきっかけで、誰かの悪意が表面に現れたモノ──それが呪いなんです。そして──」
河村邸の白い門へと再び辿り着くと同時に、解を求め続ける右手がぴたりと止まった。彼女は最後に署名代わりに、一文字だけ記述する。
「呪いの引き金を引いてしまったのは……私なんですよ」
その記号は、はっきりと、事件の終幕を告げていた。
『=』≪イコール≫……演算完了、と。
【 問 】
この事件の犯人を指摘し、その根拠を求めよ。
【 ルール及びヒント 】
・殺人事件に限って言うならば、この事件は単独犯の犯行である。
・テロップ等に登場した時刻は日本標準時間でいずれも正確なものである。
・不必要に推理を広げない要素として、アリス、津嶋、若林刑事、美加、真二、そして赤羽刑事の六名は犯人候補から外して構わない。
・なお、正解不正解の基準は「殺人犯の特定」「庄野早希殺害トリック」「樋下忠殺害トリック」の三点を指摘した時点とする。もちろん、それ以上の推理を記述することは可能。
・正解者の皆様は、このサイトにてお名前をご紹介させていただきます(希望されない方を除く)。
・また、
最も真相に肉薄した解答をお寄せいただいた方には、
お年玉プレゼントとして、bk1で好きな本2000円分を差し上げたいと思います(ご希望の方のみ)。
・解答受付〆切は
2007年12月30日(日)7時30分(コミックマーケット73・2日目サークル入場開始時点)とする。
・応募は下記メールフォームからどうぞ。もちろんmixi経由、メールで直接でも構いません。