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10 /EquaL 迷宮の国のアリス 特別編
「セロの焦点」
踝 祐吾
耳鳴りがした。
自分の中に流れる不協和音《ディス・コード》が、自らを蝕んでいく。
このままではいけない……そう思って、両耳を一気にひっぱたく。鼓膜が破り切れそうなぐらい。三半規管に響く符号が一気に転調する。完璧だ。マイナーコードはメジャーコードとなり、旋律/戦慄となって鳴り響く。
全ては、その指揮を完成させるために。
さぁ始めよう──タイトルは、〝葬送曲〟。
1.
「姉貴……ひとつ聞きたいんだが」
「あ? 何か不満でも?」
不満というわけじゃないんだが……強いてあげるなら、何故俺がここにいるのか説明を要する……といったところだろうか。区内でも一際大きな……公会堂、という言葉が似つかわしいだろうか、鹿鳴館とか教科書でみたことのあるような趣のある建物が眼前に大きくそびえ立っている。例えるなら、それは文明開化の時代からそのままタイムスリップしてきたかのような錯覚だとも言える。
「何で俺を連れてきた?」
「しゃーねーじゃん。先輩の演奏会だってもん、人は多ければ多いほどいいんだ」
……要はサクラか。だったら自分の旦那を連れてくればいいのに、何で俺なんだ……そういう疑問を払拭するが為に、俺は姉貴──氷室美加《ひむろ・みか》を見つめる。姉貴は姉貴で何故か浮き足だったように滅多に見せたことのないドレスを着飾って、今か今かと開演の準備を待ち望んでいる。どこから見つけてきたか分からない、真紅のレースが宙に舞い、年齢に比べてちょっと無理しすぎ何じゃないか、と思わせるようなコーディネートをこの人は今日のためだけにしてきた。……もっとも、だったらそれこそ真二《しんじ》兄と来ればよかったのに、と改めて思う。
「多ければ多いほどいいなら、何で自分の旦那をほったらかしなんだよ」
「ほったらかしじゃないの、ほったらかされたの!……あんなに一週間前から予定空けといてっつったのに、何でまた今日の今日になって残業なんかぶつぶつ」
眉間の皺が川の字になって一気に周囲の空気を凍り付かせつつある。目の前をどこかのご婦人が「あらやーねぇ」と言いながら通り過ぎていくのも気付かず、姉貴はここにいない人間に対する不満を顕わにする。
「まーまー分かったから、そんなに無茶しないでさー」
「そーですよ美加さん、あまり起こると身体に毒ですよー」
俺の隣にいる鈍色のカチューシャを付けた少女が、いつも通りのにこやかな笑顔で姉貴に話しかけてきた。
「でだ。何でアリスちゃんがここに居るの?」……あのう、人は多ければ多いほどって言ったのはアナタで、それとは微妙に矛盾しているような気がするんですがどうなんでしょうか。
「あ、私もおじさんにほったらかされたクチなので……」
芹沢アリス《せりざわ・ありす》の言う〝おじさん〟──若林豊久《わかばやし・とよひさ》の仕事はそんなに楽ではない。警視庁捜査一課ともなると首都警察の花形とも言える部署で、そこに配属されるためには生半可な努力では太刀打ち出来ないとはもっぱらの噂。当然仕事は激務としか言いようがなく、ましてや常にサボり癖が付いていそうなあの男のことだから、今頃仕事でカンヅメになっているに違いない、と思う。ああ、何か遠くでくしゃみが聞こえた気がするが気にしない。
「で、だ。姉貴の先輩って誰よ」
「んーと……確か佐和《さわ》さんの楽屋は……あっちか」
俺は足元に引きずられる赤い布を見ながら、姉貴の後ろを追いかける。焦茶色と肌色の二色で横断歩道のように塗り分けられているカーペットをひたすらと歩き、楽屋の裏にやってきた。開催前だからか、せわしなく歩くスタッフの姿がちらほらと見られる。大道具、小道具その他諸々。
「さて、ここだここだ」姉貴はそう呟くと。コンコンと扉を叩く。
「はいどなたー」
「あ、あたしですー麻生美加」
姉貴は自分の旧姓を答える。扉にかかっている名札を見ると、『北都フィルハーモニー交響楽団ご一行様・女性控室』なんて書いてある。……待て、俺がついてっちゃいけないところだろう、ここは。
「あー、麻生かお久しぶりー。中入って入って」
失礼しまーす、とばかりに姉貴とアリスちゃんは入っていく。俺はさすがに男子禁制の花園に堂々と潜り込む勇気はないので、外でゆっくりとジュースをすすることにする。今来た道を反対側へと歩き、豪華ホテルのロビーを更に広くしたような大広間に辿り着く。とりあえず辺りを見回し、コカコーラを発見。その隣に、他の飲料メーカーの寄せ集め自販機が目に付いた。
俺は三段目の左から四つ目あたりにあった『ばか飲みプリンセーキ』を購入し、缶の指示通りに五回ほど上下に振っていると、何やらショートカットの少女がじっとこちらを見つめている。若干目つきは悪いが、健康的な顔立ちと体つき。スポーツをやっていることが見て取れる引き締まった体型。髪をざっくりと切り、首から上だけ見れば男の子とも見間違うほどの少女がこちらを見て……段々近づいてきた。
「もしかして……津嶋……勇喜、さん?」
「いや、はい、津嶋勇喜ですが……あのー、確かどこかで」
うん、確かに会ったことがある、が。すまん、思い出せない……誰だっけ?
「私です、山科亜希《やましな・あき》です──以前どこかでお会いしたことはありませんでしたでしょうか?」
……んーと、同級生にそんな名前の人もいたような。
「ほら、津嶋さん、アレですよ。陸上部の事件」
「あーあー、あの病院でお会いしたかも……ってあれ? アリスちゃん?」
「勝手に行くから探してしまいましたよ。お久しぶりです」
そういうと、アリスちゃんはきれいな角度三十度の会釈をする。亜希ちゃんは思わず釣られたかのように、ちょっと深めの挨拶をして返す。
「そういえば」足、大丈夫なの?……と聞こうとして俺は躊躇した。そのことを蒸し返すのは彼女のトラウマを呼び起こさないとも限らない。自分の未来を絶たれ、二人の友人を失ったあの事件を、彼女はどのように思っているのだろうか。
「あ、私の身体のことならご心配なさらず。足もこの通り、リハビリは大変でしたけれど普通に歩ける程度には回復しましたし。もう少しのんびりやろうか、と考え直しました……大学受験もありますし、すぐに本格復帰、というわけにはいきませんけれど」
強いんだな、というフレーズが思わず口をついて出た。あれから一年弱、亜希ちゃんは簡単に言うけれど、ここまで回復するのには並大抵の努力では戻ってこられないだろう、良い意味での執念、としかいいようがない。
そうかよかったな、と思う反面、一つの疑問が沸いて出る。
「で、何で君がここにいるの?」
正直縁がないと思うんだけど。
「あ、クラシック聞かないとか思ってるんでしょ」図星。「ちゃんと理由があってね……あ、お姉ちゃんだ」
亜希ちゃんが後ろを振り返ると、うちの姉貴と、もう一人同年齢ぐらいの髪を肩の辺りまで伸ばしたの美人がやってくる。何となく、顔立ちが亜希ちゃんによく似ている。お姉ちゃんと言うくらいだから姉妹なのだろう。
「で、何で姉貴がそこにいるの?」
「いや、だから、今日誘ってきた先輩」
……段々頭が痛くなってきた。
2.
「はじめまして、亜希の姉で山科佐和《やましな・さわ》と申します」
物腰の落ち着いた上品なしゃべり方で、短髪のその女性は俺の前で一礼をする。佐和さんが姉貴の先輩で、亜希ちゃんが俺より年下と言うことは、二人の間は八から九歳ぐらいは離れていることになる。姉貴の紅と対比するかのように、純白のドレスを身に纏った彼女は、年齢よりも更に大人びた印象を与えていた。
「あ、この人はあたしの弟で」
「亜希から話を聞いています。その節はお世話になりました」
その節は……って一年前のことを話題に出されても照れてしまうばかりで、どうもこちらとしてはばつが悪い。
「あんたー何やったのーやることやってんじゃんー」
「やってねーよ。ほら、去年俺が打ち身で入院したことあったっしょ? あん時同じ病院に入院してたんだよ、亜希ちゃんが」
「え、そーなんですか?」
素でびっくりする姉貴。多分あの時は気付いていなかったのかも知れないが。普通先輩の妹にまで目を配らないからな、幼なじみでもない限り。とりあえず、あまり深入りするととんでもないことまで聞き出しそうなので、小声で「ちょっと色々事情があってさ、あまり詮索しない方がいーよ」と少し真面目な顔でささやいた。
「ま、後で教えろよ」と返答して、姉貴は話を続ける。「気を取り直して、いや、本当に佐和先輩から招待状が届くなんて思いもしませんでしたよ。あの佐和先輩から」
「ちょっと麻生、何が言いたいのよー……って、今は麻生じゃないのか」
「まぁ昔色々あってね」ごにょごにょ。姉貴は何故かばつが悪そうに言葉を濁す。
「ちょっと山科さん! もう準備はできたの!?」
遠くから甲高い声が聞こえて、その方を向くとソバージュのかかった髪を頭の上で少しまとめ、残りを胸のあたりまで一気に下ろした女性が、マスカラまみれのきつい眼光でこちらを睨みつけていた。
「ご、ごめんなさい松田さん! もうすぐ……」
「開演までもう時間がないのよ? 世間話をしている暇は……」そう言いかけてチラリと俺たちの方を見やると、若干はにかんだような笑顔を見せて軽く礼をする。釣られて俺たちも会釈をするが、顔をこちらがあげ終わらないうちに「すぐにね!」と怒鳴ってさっさと楽屋裏へと戻っていった。
「じゃあごめんね麻生! 終わったら旨いパスタでも食べにいこ!」
了解ッすー、と姉貴は片手をあげて、ぱたぱたと楽屋裏に駆け込んでいく佐和さんを見送った。
「何か忙しそうですねぇ」アリスちゃんがきょとんとして(正確にはいつもの笑顔のまま)感想を漏らす。
「そりゃ忙しいでしょ、何せ『北都フィルハーモニー』ってくらいだから。確か有名な所なんでしょ? この楽団って」
そーだねー、と俺の問いかけに姉貴は呟く。手元には佐和さんから貰ったと思しき公演のパンフレットがある。〝あの北都フィルハーモニーの凱旋公演! 北都フィルを支え続けた最高のスタッフにより、極上のショーを演出します〟という見出しが踊り、指揮者:伊藤敏久、舞台監督:篠沢元治、演出:小出洋太郎……と演奏者のみならず、スタッフにまでしっかりと略歴が記載されている。よほど気合の入った公演なのだろう。実際テレビで見たCMでも非常にお買い得とは言えないお値段になっていたことを覚えている。……そんな公演にロハで入っていいのかよ、俺ら。
何ページかぺらぺらとめくっているうちに、さっきのソバージュの女性の顔が目に入った。どことなく一生懸命作り笑いをしています、とでも言いたげなその笑顔が却って痛々しい。名前は松田千夏《まつだ・ちなつ》。一九七三年生まれだから……まだ三十前か。三十前にしてはよっぽどの貫禄だな、と思っていたら〝北都フィルが送る究極の四重奏《カルテット》〟と書いてあった。なるほど、あの若さで楽団のトップ的立ち位置なら、あの威張り方も分からなくはない。
「究極のカルテットだってさー……つか、何のカルテットだろ」
「姉貴、ちゃんとココ見ろよココ、チェロ四重奏だって。しかも指揮者無し」
へー、そうなんだ、とのぞき見る。四重奏という割には松田の扱いがかなり大きい。残りの三人の写真と名前もその下に並べてあった。
甲本悠人《こうもと・ゆうと》。ぱっと見スポーツマンかと間違えるような黒々とした顔つき。少し上げた口元の端からこれまた白い歯をチラリとのぞかせている。
大江昭《おおえ・あきら》。こちらは静観とは決して言えない、若干面長だった顔つきで、真面目な視線をこちらに投げかけてくる。おそらく同年代だと思うが、妙に老けて見えるのはご愛敬か。
鏡美弥《かがみ・みや》。こちらは逆に幼く見える……といっても俺と同い年ぐらいじゃないか、と思えるぐらいの女性。多分それはやや丸みを帯びた顔と低い鼻によるものだろう。いわゆるぽっちゃり、という奴かも。
究極の──と称するぐらいだから、四人ともそれなりに演奏技術はあるのだろう。期待して問題ないとは思う。……まぁ、俺ごときに問題ないとか言われても嬉しくないだろうが。ただ、その中でも突出して上手いのか、あるいは他の理由なのか、松田がやたら優遇されているのは俺にも分かる。同時に松田以外の除け者にされている(ように見える)三名がどうも哀れに感じた。
演奏会は静かに始まった。さすがにタダでチケットを貰った以上、席については文句はない……とはいえ、三階席ってあまりにも遠すぎやしないですかキャプテン。自分の席など直前まで把握していなかったものだから、スコープとかそういった類のものは全く持ってきていないのだが。どっちにしろ最初から覗く気はなかったけど。
中盤にさしかかった頃、クラリネット奏者の一部入れ替えがあった。
「ほら、アレ。佐和先輩」
姉貴が小声で、指を指しながら俺とアリスちゃんに語りかけるが、あまりにも遠すぎて誰か分からない。先程顔を合わせていたのでだいたいどの人か、は分かるけれど。
バッハのメヌエットの調べに乗せ、クラリネットはもちろん、他のパートとも親和性がある。心地よく、静かに流れる音楽。思わず寝てしまいそうになる。
しかし、それらが行われるのはほとんどが最初の場合のみ。今後の展開が楽しみだ、と思っているうちに……例の四重奏の出番がやってきた。
3.
舞台が少しだけ暗くなり、がやがやと演奏者が動き出す。遠くからホールの舞台を見ていると、本当にそれは暗闇の中でぱたぱたと動いているような心持ち。観衆のざわめき声が聞こえるが、それとはお構いなしにせわしなく人が動いている。
「いやぁ、音楽って素晴らしいものですねぇ」
アリスちゃんが感心したかのように不意に漏らす。あんたは水野晴郎か……とも突っ込もうとしたが、多分そんなネタは知らないだろうし、そもそも素人の俺の耳にも心地よい演奏であったことは確かだ。
「凄いトコに入ったもんだね……姉貴の先輩」
「そうだねー、あたしが言うのもなんだけど、あのおおらかな性格だからか、特に気兼ねなくつきあえたかな、って気がする。高校の時かな、あたしは帰宅部だったけど、玄関先でずっと練習してたのを覚えてる。そんな中いきなり『あら帰るの?』なんて声かけられてみ? 全く、あの時はよっぽど肝の据わった人なんだな、って思ったよ」
「それに関しては全く同感……努力の人なんだね」
「うん、聞き捨てならない言葉が一瞬耳に入ったが、まぁ良しとしよう」
そうこうしているうちに、司会のお姉さんが舞台袖に立ち、スポットライトを浴びる。
「では、ここで我が北都フィルの誇る、究極のチェリストたちにご登場いただきましょう。──曲はパッヘルベルの『カノン』、チェロ四重奏アレンジです」
言い終わると同時に拍手が一気に噴水のように湧き出し、舞台は明るさを取り戻す。
「ああ、さっきの……」
舞台の中央に座った四人。楽譜台を前にして大きな弦楽器を抱えた男女四人の顔は、確かに先程パンフレットの写真に載っていたあの四人だ。誰もいない指揮台を中心に、半円形状に四人がずらっと並んでいる。向かって左から、甲本悠人、鏡美弥、松田千夏、大江昭。女性二人を男性二人が挟んでいるような格好だ。
拍手が鳴りやみ、お互いが静かに目配せをする。そして一斉に弓を弦に当て、大きく動かすと懐かしい、そしてどこかで聞いたことのあるような懐かしい響きが漏れる。卒業式の証書授与とか、結婚式の入場とか、旅立ちの意味合いで要所要所に使われるあの曲。テンポよい、それでいて穏やかな音色が心を落ち着かせる。
ここまで来ると〝呆然〟という感情しか浮かんでこない。……開いた口がふさがらないまま。六分程度の長い曲が鳴りやみ、最後の一音が響き終わると、観客から一斉に拍手が巻き起こった。
「パッヘルベルの『カノン』、お聞きいただきました。ここで演奏者の紹介をしたいと思います……」
再度司会のお姉さんが舞台の上に立つと、四人の紹介を次々とし始める。名前を呼ばれるたびに一礼をする演者たち。その中でも、あのソバージュの女性──松田千夏は、その高貴な雰囲気からか他の演奏者とはやはり一人だけ違うオーラを醸し出していた。やはりこの人は違うんだ、と場の空気が伝えてくる。
「ところで、チェロってあんな大きかったんだっけ? バイオリンのちょっと大きいぐらいのを想像してたんだけど」
「ほら姉貴、昔、宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』ってあったじゃん。あの絵本とかアニメとか見たこと無い?」
「あんたみたいなオタクじゃないんだから見たことあるわけないじゃーん」
なにおう、フランダースの犬程度でオタク呼ばわりされたら日本全国のオタクに申し訳が立たないじゃないか。
「ですが、『チェロ』は元々イタリア語で『小さな』という意味なんですよ」
「え、そうなの?」アリスちゃんの発言に姉貴がきょとんとする。
「正式名称は『ヴィオローネチェロ』と言いまして、『小さなヴィオローネ』──ヴィオローネ、とは今のコントラバスの元になった楽器ですが──それを略して『チェロ』と呼ばれるようになりました。ちなみに『ヴィオローネチェロ』という言い方の方が推奨されているようですが──」
「いいから、解説は後々。次の曲が始まるよ」
こうやって止めておかないと、今度は曲の解説の方が聞こえなくなりそうだ。
……言葉も出ない。
やはりプロの演奏は違うんだな、と俺は改めて認識する。ただ、どことなく違和感があった。一曲に一度だけ混じる不協和音。それまで流れていた曲が、その一瞬だけ違う顔を見せる。ただし、それは曲の裏テーマとかそんなではなく、何か別の、得体の知れないものであるかのような。
「では、このコーナー最後になります。最後も非常に有名なオペラの曲ですので、ご存じの方も多いことでしょう。華やかな装飾の中に、音楽の持つ鋭さを味わっていただければ幸いです……聞いていただきましょう、モーツアルト作曲、『魔笛』より──『夜の女王のアリア:復讐の炎は地獄のように我が心に燃え』」
一瞬背筋がぞくっとした。数曲を立て続けに聴いて至福の時間を味わっていたところに、突然耳に『復讐』なんて単語が耳に入ってきたからだ。
曲は少しだけ緩やかに始まったかとも思ったが、段々と響きが強くなってくる。確かなんかで……江戸川乱歩ものの映画かテレビのスペシャルじゃなかったかな、その中で聞いたことがある作品だ。見たのは確か中学か高校の頃ぐらいで、「ホホホホホホホホホー」の部分がやたら印象深かったのを覚えている。大学でも西洋文化史だったかでオペラのDVDを見せられた時に、そのゾクゾクとした、戦慄の中にも恍惚とした登場人物の表情が脳裏をよぎったのを覚えている。
今回演奏しているのはそれのチェロ四重奏アレンジである。管楽器はないので、チェロ特有の重低音が一気に鼓膜にのしかかる。
二回目の「ホホホホホホホホホー」の時に異変は起きた。妙に客席が騒がしい。ざわざわと、心配そうな呟きが集大成となって、音楽をかき消そうとする。それと呼応するかのようにチェロの響きには明らかにおかしい和音が混じるようになっていた。
舞台を見ると、一人の身体がおかしな方向に揺れている。前に、後ろに、左に、右に。両脇の二人も少しずつ揺れてはいるが、彼女ほどではない。誰もが松田千夏の異変に気付いていた。前後に大きくグラインドし、そして、腕から弓がこぼれ、演奏がついに止まる。
「ちょっと待った──……」
そう呟いた瞬間、松田の身体が前に倒れた。
──ダンッ。
……問題編2へ演算継続中……。